談合社会から環境管理社会?がん登録

オンライン書店ビーケーワン:新聞社オンライン書店ビーケーワン:ジャーナリストになるには文学環境論集 東浩紀コレクションL
 ミクシィで『新聞・本の再版維持制度を考える』のコミュニティを立ているのですが、放置の状態だなぁ、(反省)。今日、視聴したマル激トーク・オン・ディマンド 第321回(2007年05月25日)は、『新聞ビジネスはすでに破綻している、河内孝氏(元毎日新聞社常務取締役)』のテーマですが、新聞社業界は最後に残った護送船団でもあるわけですよ。
 「がん患者の孤独を和らげるために尽力したい ゲスト:山本孝史氏(参議院議員)」の放送も、頷くことが多かったのですが、「がん対策基本法」が4月から施行されているんだ。勉強しなくてはいけないなぁ、まず、「大阪府がん登録」をして、情報を公開することが第一歩だろうね。
 東浩紀新刊『文学環境論集』のessaysの2−13『匿名性はなぜ必要なのか』で、こんなことを書いていた。

 人間ひとりひとりがきちんと近代的な人間になるように、それぞれの内面に心がけをインストールしていくという発想は、近代国民国家の各所に見られます。たとえば、教育や軍隊、病院などが一例です。この考えかたを、フーコーは「規律訓練」(ディシプリン)という言葉で呼び、近代社会の特徴だと指摘しました。
 ディシプリンというのは、日常用語では「躾」という意味です。近代社会はまさにひとを躾ける社会なんですね。それは日本においては、戦前はナショナリズムによって維持されてきたと言えます。ところが、みなさんもご存知のとおり、ここ10年くらいでディシプリンがまさにボロボロと崩壊している。それは日本社会だけの問題ではありません。1970年代や1980年代あたりからどんどんディシプリンが崩壊しているのが、世界的に見て大きな傾向です。それを別の言葉で言えば教育システムの崩壊ですし、国家とか政治をみんなが信じなくなったと言ってもいいと思います。
 それでは、私たちの社会は、ディシプリンなきあとどこに行こうとしているのか。ここで、今日の第二のキーワードである「環境管理」が登場します。
 私たちの社会は、秩序維持の軸足を規律訓練から環境管理に切り換え始めている、だからこそ監視技術が一般化しているのだ、これが今日の講演の中心にある話です。どういうことかと言いますと、さきほど刑務所の例を出しました。普通、刑務所と言えば塀があって鉄格子があるわけですが、先日の新聞報道によると、塀や鉄格子がなく、ICタグやセンサーで管理することによって囚人を管理する「ハイテク刑務所」がついに日本でもできるらしい。この方向で進めば、将来、刑務所はむしろどんどん少なくなっていくかもしれません。というのも、たとえ犯罪者が刑務所の外にいたとしても、つねに位置情報を確認され、危ないことをやりそうなところに近づけないのであれば、十分な抑止効果があると言えるからです。
 この変化は大きなことを意味しています。まず前近代では、危ないやつはとにかく閉じ込めるということでした。つぎに近代では、みなとりあえず平等なので、危ないやつもきちんと教育し、近代人としての遵法精神を叩き込むべきとなった。ところがいまや、危ないやつはどうせ教育しても変わらないが、かといって人権上ずっと閉じ込めておくわけにもいかないので、とりあえずGPSでずっと位置確認を押さえておけばいいんじゃないか、という発想が強くなってきているわけです。
 私は、それがいいか悪いかは問いません。しかし、そこで社会秩序の原理そのものが大きく変わりつつあることには、注意するべきだと思います。私たちはいまや、人間はあまりにも多様で、したがって理解しあうことも価値観を共有することも難しいから、とりあえずは情報技術によってみなが情報を開示し、それぞれ十分なリスク管理を行うことで問題を回避しようという思想を採用し始めている。左翼の人々が敏感に反応している「監視社会化」、つまりとりあえず全員指紋をとっておこうとか、すべて記録をとっておこうとかいう世界的な動きは、国家権力の横暴というよりも、このような社会秩序の変化そのものに起因している。私は、この、人間の内面に期待しない社会秩序生成の原理を「環境管理」(コントロール)と呼んでいます。

 僕はかような「環境管理」の方向性で考えている思考の癖があります。過去のエントリーでも書きましたが、通院している病院で、GPSを首からぶら下げて、通信が届く範囲内を動き周り、何時間の待ち時間も図書館に行ったり、駅前まで行って用事をしたりする。通信が届かなくなると、発信とコマンド文が画面に表示される。でも、電源を切ることは出来ないのです。それでも、とても便利がよいと思います。順番が近づくと、中待合い室でお待ち下さいと表示されるから、病院にもどればいいわけです。
 先日、銀行カードも生体認証の登録もしましたよ、指紋ではなく指の血流で、認証をするわけ。こんなことを言うと誤解する恐れがあるのですが、ホームレスの住所地、戸籍、組織に属していないと、生活保護の申請も、なかなか部屋を借りることが出来なかったり、クレジットカードの作成も困難になったり、そのような信用担保を例えばICタグでやってしまう。その代わり戸籍法を廃止してしまう。などのような思考実験をしてもいいかなぁと思ってしまう。当然、そこで、親族・相続法などの家族法の再検討か要請されるでしょう。「国民総背番号制」が悪玉みたいに語られますが、結婚しても別姓、子供も別姓、PCの認証番号が全部違うように、みんな、個々でカウントされ、家族だとか、会社だとか、そんな中間的共同体が中抜けして、ネットワークで繋がる。そんな世界を僕はイメージしていますね。だから、東浩紀の言う「環境管理」を肯定的に考えたいのです。「がん登録」をしようと思います。彼が言うように「監視」と「自由」は共存しているのです、という文脈で僕は着地点を探しているのです。
 追記:karposさんが、「更生の可能性は内省にかかっている。」と書いていますが、僕たちの住んでいる、この社会は刑法体系にしろ、私法ににしろ、「内面」を拠り所にしている。「故意」、「契約意志」にしろ、そうであろう、社会学者がポストモダンというマッピングをしても、齟齬があろうとも、軋んでいようとも、近代社会デザインの発見した「人間」概念の了解のもとで生きてきたし、少なくとも、僕の存命中は、そのような「人間」が多数であろうけれど、段々と「内面」を要請されない、根拠にしない法体系を構築しないと、社会は持たなくなって行くのではないか、一方で、萱野稔人がマル激トークで言っていたように、グローバル化の進行は暴力装置としての国家がなくなるような方向性に行くような錯覚が生まれるが、そうではなくて、益々、国家は強度を深める。このあたりの検証は社会工学的に深める必要性があるのでしょうね。