内部の内部は外部である?

 河瀬直美監督の『殯の森(もがりのもり)』から、日本のインディーズ映画の「親密さ」という特異性、素人俳優の起用が「真実」になっているとか、karposさんの目は日本を出たり入ったりする「動的平衡」を保って思考する軌跡がうかがい知れてとても刺激される気付きがありました。まだ、この映画を見ていないので、確信を持ったコメントは出来ませんが、もう試写をごらんになったナンダロウアヤシゲさんは、こんなことを書いていました。

古本屋〈ならまち文庫〉宇多さんが。そう、この映画の主演「うだしげき」は、あの宇多さんだったのです。おめでとうございます。ただ、この作品、ぼくは試写を見せてもらっているのだが、いい映画だとは思えなかった。宇多さんが熱演しているのはよく判ったけど、彼の本領は、『ぶらり奈良町』などを通じてのならまちでの活動と、『黄色い潜水艦』に書いている小説にあると思っているので、ちょっと複雑だった。

 映画と古本を愛する玄人ナンダロウアヤシゲさんらしいコメントで、宇多さんの背景を知らない僕はただ、この映画を見て判断を下すしかないのでしょうが、恐らく、ナンダロウアヤシゲさんの目は玄人の本領として宇多さんの仕事に接しているから、ある種のノイズが入っているのでしょうが、それは理屈ではなく、仕方がないことなんでしょう。まあ、僕はまっさらな気持ちで見れる濃度が高いのでそんな心配はしなくていいのでしょう。
 先日、茂木健一郎さんのMP3を聴いたら、吉本隆明さんの話として、いわゆる、文化人が講演を頼まれて、壇上に立ち市井の人々に対して蘊蓄を傾けますが、そのような立ち位置ではなく、千人の人々が壇上に立ち、文化人の人々が観客席に座って千人の話を聴く、そういうことが大事なんだとおっしゃっていたが、その通り(半分ね)だと思う。でも、プロの話をリスペクトして聴きたいのが、半分以上、僕にはあります。
 恐らく、ブログはそういう素人?装置として最適なものだから、僕自身、このブログを立ち上げるときに「千人印の歩行器」なんて旧看板を掲げたわけですが、なかなか、千人の人たちの話を聴く(それは、コメントや、トラバを通してでもありますが…)ことは大変だと身にしみてわかります。id:kanjinaiさんが、id:mojimojiさんと「他者を歓待するブログについて」で応答をしていますが、問題は、実際のノイズとして排除されることがみんなから仕方がないもんだと思われている問題の人(当事者)がこういうところに登場して聴く耳で参加してくれることでしょう。id:kanjinaiさんがコメントでその存在が、「私が認めたくないような自分自身の隠された何ものかを、否応なく暴いてくる」ような存在であるときそれが真性に「他者」と呼ばれるのではないか、という直観」という言葉は痛いけど、そこがスタート点でしょうね。

(1)「ネットに現われた他者の「他者性」を消し去っていく仕組みが掲示板などには備わっていて、そのせいで、ネットでのやりとりは、自己閉塞的・他者消去的なものへとどんどん変容してしまいがちなのではないか」。と私は思います。その実例が、私のエントリーで書いたような事例です。ネット掲示板などで「議論が深まらない」という経験的事実もまた、この点が関わっているのではないかと感じます。この意味で、ネット掲示板などは、「ネットに一瞬現われた他者」から、その他者性をどんどん奪って無力化していく装置なのではないかという疑惑が浮かび上がってきます。この点を深刻に捉えるならば、ウェブというものに、他者との出会いと歓待を過剰に期待するのは、場違いかもしれないということになります。私は、この考え方に近いです。(ただこの点に関して、ネットと3D世界のあいだにどのくらいの違いがあるのだ?と問われれば、私はまだその違いを見積もることはできていません)

(2)「他者とは何か?」というのが、問題になってきます。「私にとって不快で不都合な他者」「その人は、私が決定できない存在であるという意味で「他者」である」というふうにmojimojiさんは規定されています。それはそれで、よく理解できるのですが、「他者」という概念はそれだけでよいのだろうか、という問いも私にはあります。単に、その存在が「不快」「不都合」「決定できない」というだけではなく、その存在が、「私が認めたくないような自分自身の隠された何ものかを、否応なく暴いてくる」ような存在であるときそれが真性に「他者」と呼ばれるのではないか、という直観が私にはあります。「他者」がそのようなものとして一瞬現われるからこそ、掲示板の他者性消去システムが強力に作動して、「互いの隠されたものを暴こう/秘匿しよう」という粘着ゲームが開始され、荒れていくのではないかと感じます。このあたりのことは、もっと緻密に考えたら、いろんなことが分かってくるように思います。http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070529/1180428267

 壇上の人々と観客の人々という境界線が溶解している場にブログの人々が集うシーンが見えそうで見えないといったそんな僕なりの直感があります。
 先日紹介した福岡伸一の『生物と無生物のあいだ』の第10章「内部の内部は外部である」で、パラーディの観察の記述に興奮しました(p198)。

小さな風船(=小胞体)の内部とは、大きな風船(=細胞)にとって一体何に当たるだろうか。それは外部に当たるのである。つまりタンパク質は、小胞体の皮膜を通過してその内部に移行した時点で、トポロジー的には、すでに細胞の外側に存在しているのだ。
 この一見、奇妙なロジックを納得していただくためには、小胞体の出自をたずねるのがよい。小胞体はどのようにしてできたのか。それには、大きな風船のゴム皮膜に対して、風船の外側から握りこぶしを突っ込んで陥入させた様子を想像してみてほしい。握りこぶしの周りにはゴムの皮膜がへばりつき、握りこぶし自体は風船の内部に入っているように見える。けれども、握りこぶしが存在する空間は外側と通じている。

 このあたりはまるで手品の種明かしみたいにワクワクして読んだのですが、それでは、次のシーン、タンパク質が細胞の外へ放出されるための出来るだけ、ダメージを最小にした振る舞い方は?
 続きは本書で確認して下さい。恐らく他者問題は「内部」を迂回しては外部に出ることは不可能で、強引な物理的な力(暴力)しかないでしょう。でも、そのようなやり方はエントロピーの増大を早め、やがて生命はフラット(死)になってしまう。
 そのような性急さではなく、内部に潜り込んで繊細に道筋を模索する振る舞いで、タンパク質は細胞の外へ出て行く。何と見事な業だと感嘆しますね。
 ★癇癪フロッグさんがブログをおやめになると書いていますが、又、いつか、再開して欲しいと思う。僕のようなグウタラオヤジが出来ることは、少しづつイラチにならないで、余白で歩むしかないということなのか。僕のブログのエントリーが千日をとうとう、越えました。お疲れ様でした。http://nervous-frog.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_b6b5.html