リバタリアンとネオリベ/自由とは

リバタリアン宣言 (朝日新書)メキシコから世界が見える (集英社新書)電波利権 (新潮新書)
 東浩紀さんはリバタリアン哲学者だそうだし、赤木ミクシィコミュで、「■ この人は本当に頭が悪いと思う 」をめぐってのやりとりの中で、ネオリベについて、僕自身、勘違いしている部分があるかもしれないと気づきがあり、リバタリアンネオリベの区別もはっきりわからなくなりました。
 少なくとも、僕の中に「リバタリアン」の要素があるかもしれないが、「ネオリベ」じゃあないよと言うのがある。いわゆる小泉の構造改革は「リバタリアンでないネオリベ」で、例えば蔵研也の『リバタリアン宣言』(朝日新書)で、ノーラン・チャートを引用しているのですが、それによると、縦軸(精神的自由)、横軸(経済的自由)の十字路で、精神的自由・経済的自由どちらも高いA(右上ボックス)は「リバタリアニズム」、精神的自由が低く、経済的自由は高いB(右下ボックス)は「愛国的保守主義」、精神的自由が高く、経済的自由が低いC(左上ボックス)は「リベラリズム」、精神的自由・経済的自由どちらも低いD(左下ボックス)は「全体主義」という図式なのです。
 そして、僕のネオリベ理解は、Bボックスの「愛国的保守主義」ではないかと思うわけです。僕自身、Cボックスの「リベラリスト」と思っていたが、限りなくAボックスの「リバタリアン」に近いところがあるのではないか、それで、東浩紀に惹かれるところがあるかもしれないという気がしたわけです。
 ネオリベって小さな政府が前提で出来る限り政治にコミットしない「新経済的自由主義」なんでしょう。「愛国的保守主義」とはそぐわないのですよ。「談合的新自由主義」がネオリベなのかと、今のところは思っているのですが、もう一つ、わからない。
 「上は談合、下は市場原理」がネオリベなら、「上は市場原理、下は談合(助け合い)」がリバタリアニズムという理解をしているのです。
 もし、そうなら、僕はリバタリアンと呼ばれてもいいかなぁと思っているのです。間違っていますか?
 それで勉強すべく、ネット検索したら、山本純一先生の『新自由主義ネオリベラリズム)とは何か』の講義が視聴出来るではないですか、さっそく、一回目のビデオ授業を拝見。全部、聞き終わるには、だいぶ、時間がかかるでしょう。
http://gc.sfc.keio.ac.jp/class/2004_14754/slides/01/1.html