戦争と平和

差異を前提とする連帯(武田徹)♪その困難さよ!

 ◆昨晩の続きを書きます。目が元気になりましたので、一部引用もします。
 『STUDIOVOICE・8月号』の小熊英二×雨宮処凛の対談で、日経連が95年に出した「新時代の『日本的経営』」は重要なテキストなので、原典をネットで当たってみました。
 A:「長期蓄積能力活用型グループ」(期間の定めのない雇用契約
 B:「高度専門能力活用型グループ」(有期雇用契約)
 C:「雇用柔軟型グループ」(有期雇用契約
 のカテゴリーで、身も蓋もなく分類している。凄くわかりやすいですね。詳細は上のサイトで当たって見て下さい。前日、言及した赤木論文はCのグループの問題で、小熊さんが、「希望は、戦争」を受けて、

 小熊 徴兵制とかで大量の兵隊を動員する戦争は、もう昔話なんです。今の先進国の戦争は誘導ミサイルとかの精密兵器が主役で、大量の兵隊は必要ない。最後に攻めこむのに少し歩兵が要るだけで、それはアメリカなら人種的マイノリティが多い。つまり歩兵なんて今の軍隊では最下層の3K労働者なんです。後方にはミサイルを操る技術職がいて、さらに後方にいる指揮官や幹部候補生が軍隊の出世組です。
 雨宮 それって日経連が95年に、今後の雇用は幹部候補の正社員と、技術職と、有期雇用の使い捨て労働者の三つに分けると提言したのと……。
 小熊 似てますね。しかも今の先進国では、戦死者が数百人も出たら政治問題になるから、歩兵もできるだけ死なせない。「戦争で死にたい」と考えて歩兵になったらきっと失望しますよ。
 雨宮 赤木さんは「九条を守れ」と言っている人をすごく批判するんです。護憲運動をする人なんかには今が平和に見えていて、その平和が脅かされると思っているかもしれないけれど、プレカリアートにとっては今の生活自体が戦場みたいなんです。見ている現実が違うというか、前提が違う。
 小熊 それは同感します。「九条があっても俺は職がないんだよ」という若者の声に、護憲論者が十分に答えているとは私もあまり思いません。
 雨宮 それと、「九条を守れ」と言っている世代は、お金と定職があって資産形成できた連中じゃないかという恨みがある気がします。自分たちの守ってくれるべき左翼や労組が、彼らの地位や雇用だけを守って、フリーターや派遣の若者を切り捨ててモラル・バッシングをしているという恨みがすごくある。右翼には労働の問題では期待していない分、憎しみもない。
 小熊 それも同感。既存の大労組はもちろん、「若者に職を」とかポスターを出した共産党も若者に人気が出ない。それは、「自分達の議席を守るために俺達の票を集めようとしてんだろ」と思われているからでしょう。「君達の職を守るためなら、わが党は全滅してもいい」という覚悟でそういうポスターを出すなら反応は違うでしょうが。
 雨宮 それならグッときますけどね。
 小熊 でもそういう不満から改憲しても、さっきの戦争の話と同じで、期待は裏切られるでしょう。当然ですが九条を変えても雇用は改善しない。起きるのは米軍の後ろに自衛隊がくっついて、イラク戦争のイギリス軍やベトナム戦争の韓国軍のように戦闘させられることだけです。それは膨大な財政負担になるし、たぶん消費税の大幅値上げとか生活保護の切下げにつながるでしょう。改憲をを支持しても自分で自分の首を締めるようなものです。
 貧しい若者が既存の左翼に失望し、ネオリベラルの「改革」を支持するというのは、労働者階級の若者がけっこうサッチャーを支持したという先例があります。日本でも小泉さんが「改革」といって人気を集めたけど、彼のやった「改革」は郵便局つぶしと派遣労働の規制緩和がメインでしょう。サッチャーや小泉を支持した若者は自分の首を絞めたんです。既存の左翼に不満だというのはわかるけど、それで小泉や改憲を支持するのは賢明じゃない。(p37)

 となると、徹底したネオリベ⇒小さな政府⇒「上は市場原理(規制緩和)、下は談合(助け合い)」で、国を融かして「共」と「私」の方向指示器を掲げた「リバタリアン」しかないのかなぁと、思ってしまいました。赤木コミュの方で誰かが「日本リバタリアン党」を立ち上げれば云々のことを書いていましたが、面白いと思いますよ。
 ◆蔵研也の『リバタリアン宣言』を読み終えました。
 リバタリアンは「働く機械」に誇りを与えることが出来るか?もし、それが出来うるなら、「いいじゃあないか」と思えるのですがね、
 例えば、幹部候補の正社員と高度専門技術者と有期雇用の使い捨て労働者の三タイプにそれぞれの色で誇りを与えてゆくのが問われるわけです。
 実際のところ、AはAで、BはBで、悩みがある。Cだけの特殊ではない。僕の身近なAを見ていると、バラ色ではない、大変だと思うわけです。色々なものを沢山抱え込んでいる。病気になったりする。Bにしたところで、偶々SEの技術者の知り合いが、システム開発にチームを組んでインドの人たちと一緒に仕事をすることが増えたが、英語が喋れないので苦労していると。そしてその激務に感歎しましたが、「極楽トンボ」の僕には仮に若かってもマネができないと思いました。今のような労働環境の下では、若くて、チャンスがあっても、AやBには成りたくないのが本音です。そのようなアウトソーイングの現場について「まっちゃんさん」がエントリー更新していますね。大多数の日本人が英語が喋れないというのが、何とか日本の労働環境を守っている部分がありますよ。
 だから、赤木コミュで、もし仮に、「日本リベタリアン党」が発足しても、その理念に賛同しても、僕は党員資格はありやしない。「オブローモフ党」なら資格があるかなぁと書きました。「一生下の待合室」で、ぶらぶらおじさん出来るならもう最高ですね。憧れる!

 テレビに映るような人気の美しい女性と結婚したい。誰もがうらやむ贅沢な暮らしがしてみたい。音楽やスポーツのスーパースターになりたい。これらの望みは、ほとんど定義によって全員が実現できないものです。おそらく、こういったすべての欲望にさいなまれることが、利己的遺伝子がプログラムした人間個体の宿命なのでしょう。
 しかし、これらの資源獲得型の欲望とは違って、平和はすべての人が享受できうる状態です。ー蔵研也『リバタリアン宣言』(p208)−

 どうやら、蔵さんは、平和が最優先として語っているような口調が「ネオリベリバタリアン」と違うのでしょう。アナルコ・キャピタリスト(無政府資本主義者)としてのリバタリアンなので、人権第一主義を理想とするのです。その限りにおいて「リベラリスト」でしょう。
 でも、赤木さんの「金をくれ、生きるための誇りを踏みにじらないでくれ」 のSOSの構造的な意味、「貧困問題は平和問題より最優先なんだよ」という「切実さの視点」が欠けている。ラテン・アメリカの反省のもとに山本純一は公(国家)と私(市場原理)において徹底した規制緩和の行った結果、何とか経済は立て直ったが、「富める者は益々冨み、貧しい者は益々貧しくなる」、所得格差はとてつもなく広がり、共(NPO、助け合い)という第三の道の重要性を指摘したわけですが、映画『ラザロ』でマユミが登場する。
 赤木さんの『希望は、戦争。』『続、希望は、戦争。』、に関して、別の回路から言及するなら、かって武田徹さんが提議した、鶴見俊輔さんの「自分は人を殺した、人を殺すのは悪い、と、一息でいえる人間になろう」 をめぐってのやりとりがありましたが、  平和はすべて人が享受出来るし、「平和は悪い、嫌いだ」とは、大声で言う人はいないでしょう。赤木さんだって、戦争は大好きって言っているわけではない。「自分たちは戦後、人を殺していない、誇るべき善き人たちであった。人を殺すことは悪いと、これからもどんどん、言いましょう、平和万歳!」そのような多数の言説を前に「あえて、希望は、戦争。」と言ってしまった叫びと、武田さんが「自死を絶対認めない」、<私>に拘泥する「ブルーハーツ」を取り上げましたが、そのこととどこかで繋がっていると思う。
 限りなく<私>を歌う「ブルーハーツ」の感性を手放さない、蔵さんの『リバタリアン宣言』なら、僕も受け入れる用意がありますね。
 赤木さんの《私が欲しい、そしてすべての人がごく当たり前の尊厳として得るべきなのは、「人間としての『命』」であり、ただ心臓が動いているだけの「いのち」などではないはずだ。》
 別に、贅沢な暮らしをしてみたい、スーパースターになれなければ、オレの誇りがズタズタになると言っているわけではない。ささやかな誇りなのです。恐らくそこに、人権というフックがある。リバタリアンたる蔵さんは、人権第一主義を理想とする言っているのに、人権を大事にする左翼リベラリストが「『何も持っていない』私というが、いのちは持っているのである」っと言ってしまう鈍感さに頭を抱えてしまう。
 そのような意味で、赤木さんは、公称左翼リベラリストより、リベラリストなのでしょう。でも、蔵さんの視点から見るなら「リバタリアン」としてカウントされるかもしれない。
 「平和が貧しい人々を虫けらのように取り扱うことでしか成り立ったないとしたら、そんな平和のどこに、希望があるのだろうか?」