裏表の労働観

 内田樹『格差社会って何だろう』を読んで頭を抱えてしまった。このような物言いは益々、「金の全能性」を強化するだけでしょう。予想通り、石井さんや、赤木さんにだいぶやられているなぁ…、時々、内田さんは「鈍感」になることがありますね。戦略的なものなんだろうか。
 ワタミさんのように、私の考える「市場主義」と「競争」とは 〜お金の話は汚いですか?と言ってくれる方が、「金の全能性」を削ぎ落とすことが出来る。あえて、内田さんはこんなことを書いているのかと思いましたが、どうもそうではないみたいですね。
 生田武志さんが、『フリーターズフリー01号』で、いわゆる日雇労働者とフリーターとの労働観の違いを書いている。生田はここで、「日雇労働者がリハーサルし、フリーターが本番をやっている」。という仮説があって、日雇労働者の平均年齢は60歳手前で、内田さんの年齢(’50年生)は集団就職世代(1940〜50年生まれ)に重なる。僕(’44年生まれ)もそうです。そして団塊世代(1947〜49年生まれ)を含む。この世代は中卒で集団就職していく階層と大学進学が可能な二つの階層がおおまかにあったわけですが、一方は<金の卵>と言われ、他方は<高度経済成長の果実を享受した中間層>の誕生であり、そしてその失われた1990年以降の10年の間、この親世代の格差が顕在化されたのではないかという問いがある。一方で<フリーター>を生み、他方で<ひきこもり>を生む。どちらからもはじき飛ばされたのが<ホームレス>であって、<ニート>はそれらに被さる漠然とした概念でしょう。働く意志のあるニートと働く意志のないニートと分類して「フリーター≒ニート≒ホームレス≒ひきこもり」という考察をしてもいいと思いますけれどね。
 僕のまわりを見ても、いわゆる<中間層>の子どもたちで、<ひきこもり>をやっているのが目立ちます。家庭内という居場所、財、がありますからね、ただここで、生田はラディカルに考察して、<公>に接続した社会性のないヤツは、所詮、<ひきこもり>だと想定しているように思われる。<会社人間>も<専業主婦>も<ひきこもり>であって、<ひきこもり>を戦っている上村和樹さんは<働く>ということを単なる<会社人間>に回収されるものではなく、働くが<公>に接続するものを模索しているわけでしょう。
 「国家・資本・家族」の日本的三位一体の装置が揺らぎ、綻び始めたのは、右肩上がりの経済成長が見込めなくなった基盤があり、その土俵で格差問題(分配問題)を開陳しないと、噛み合わない。赤木さんが内田さんに「内田樹はまだ現実に気付かないのでした」 というのはわかるのですよ。僕は内田さんにクリシェの<労働観>、<お金がすべてではない>を聞きたいとは思わない。<分配問題>を聞きたいわけです。
 生田さんのマッピングでは内田樹は<団塊世代>、赤木智弘は<団塊ジュニア>になりますね、ここは、<働く>について、<親子対談>、<往復書簡>のようなものを論壇誌で企画したら如何ですか、

 日雇労働者・野宿者の多くは、年齢から見て高度経済成長とともに就労年齢を迎えている。例えば1950年生まれにとっては、1960年代は10代にあたる。日雇労働者の多くは中卒か高卒なので、仕事を始めた時期は高度経済成長のまっただ中だった。これは、現在の日雇労働者・野宿者の労働に関する意識が、国家・企業・家族が一体となって高度経済成長を実現した1950年代後半から70年代始めに形成されたということを意味している。このことは、この世代の労働観に大きな影響を及ぼした。ぼくは、1988年から日雇労働者として数え切れないほどの多くの労働者と一緒に仕事をしてきたが、1964年生まれのぼくにとっても、この世代の労働観はほとんど理解できないような面があったと思う。
 その一つの特徴は「人間は働いてなんぼのもんや」、つまり「働くことはよいことだ」「怠け者はだめな人間だ」という明快さである。一般に思われている日雇労働者とは逆に、多くの日雇労働者現場では「クソ真面目」「馬鹿正直」な労働者だった。その多くは、手を抜くということを知らず、どんなキツイ現場でも汗水たらして働いていた。日雇労働者の場合、「日雇雇用保険」制度があって、1月に14日(当時)以上働けば仕事がなくても1月に13日、1日6000〜7000円程度の雇用保険(失業保険)を受給できた。だが、「あんなものをもらうと人間がダメになる」と言って、この雇用保険の手続きをしない人が結構多かった。雇用保険は労働者の権利だが、それ以前に「食い扶持は働いてもらうもの」「人様の金(税金)で暮らすなんて!」という意識があったわけだ(これは現在の野宿者の「生活保護」に対する拒否反応と重なっている)。日雇労働者になって早々と雇用保険手帳を作ったぼくなどは現場で「あんた若いのにそんなもん作ってんのか!」とよくあきれられたものである。(p210)

 このように、階層は違っても内田さんの労働観は生田さんがあげている団塊の世代日雇労働者と似たものがある。この「フリーター≒ニート≒ホームレス」の論考は膨大な資料を参照した労作で生田さんの力業に圧倒されますが、この問題に関心のある方は必見ですよ。
 どうも「金の全能性」についてお互いに極論を言いたがっている、それがポリティカル・コレクト(PC)の振る舞いなら、噛み合う気がするのですがね。
 
 ともあれ、上の引用で生田さんは日雇いである彼らの代表的な労働観を三つ指摘しているのですが、その他二つ目は、「社員」であることが「まっとうな」働き方だ、という意識。3つ目は「家の者を助けられないのは心苦しい」っていう家族に対する強い思い。
 勿論、要領のいい連中もいますよ、ぼくが実際に会った表向きの「寄せ場」の日雇いは生田さんの言う特別地域に失業対策のてこ入れが行われているのを利用して、ドヤの主人に居住証明を発行してもらい月の半分はわざと失業保険をもらってフリーター稼業をしているヤツがいました。ちゃっかり、別のところにアパートを借りている。早朝、山谷に寄って、仕事にあぶれるように振る舞って、6000円もらい、なに食わぬ顔でアルバイトをしているわけ。
 そうかと思うと、ぼくが何かと相談されている20代後半の若者のオヤジはぼくと同年輩で、何十年と日雇いの「穴掘り」作業をやっていた。真面目なんだけれど、年金の保険料なんて払っていなかった。ただ、家族を持ち、子どもたちを育てましたからね、若い友人は高校を中退したが、今は正社員で営業の仕事をやっている。先日、久しぶりに会ったら、役付きになったと嬉しそうに名刺をくれました。ただ、オヤジは身体を壊し、生活保護で何とか暮らしを立てているらしい。
 別の1950年代生まれの友人はいまだにフリーターをやっていますが、会えば会うほどいい顔になっている。ひょっとして内田さんが書いているレヴィナスの師、シュシャーニ師って彼のような人ではないかと思わず思ってしまいました。彼も又、年金の保険料を払っていませんね、でも、生活保護の申請もしないと思う。どうするんだろう、ぼくが心配しても仕方がないのですが、彼はいまだに小説を書き続けている。オール・オア・ナッシュングでとうとう50歳を越えたのか、相変わらず、今日一日を全力投球している。
 色々な人がいますよ、世代論でくくれないことは勿論ですが、あえて、戦おうとすれば、赤木さんの言説は理解出来る。僕は、基本的に戦っている人は、年齢にかかわらず、僕の考えと違っていても、リスペクトしょうとするわけです。「分配の問題」をタブー視された領域に手を入れて「何とかしようとしている切実さ」を理解したいと思う。 
 内田さんのこの格差社会のエントリーは<安全地帯からの駄文>と思われても仕方がない。 
 上の引用の続きは『フリーターズフリー』で当たって下さい。結構、大きな本屋の店頭に平積みされていますね。生田さんと、arisanさんのやりとりも色々な気づきがありました。追記:arisanさんのエントリー「フリーター≒ニート≒ホームレス」を読む。
 参照:★http://d.hatena.ne.jp/eco1/20070726/p1
働かない者は人間ではない(?)――内田樹「不快という貨幣」
★「ぬるい議論はやめよう書籍出版 双風舎
http://allneetnippon.seesaa.net/article/47885611.html