普遍性のオルタナティブ

東浩紀がブログで、お嬢さんの写真をアップして、 哲学的リバタリアン宣言したのが、何となくわかりました。
 夏目房之介ブログで触れられていた講談社PR誌「本」8月号に掲載されていた大澤真幸vs東浩紀対談『ナショナリズムゲーム的リアリズム』を読みました。大澤さんが「<身体>から考える」、「生殖の問題」で、東さんからとても気になる言葉を引き出していたので、付箋を貼り付けました。
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東 一般的にリベラルな知識人がなぜダメかというと、リベラルなんか好きじゃないと言っている人たちに対して、寛容じゃないからです、みんながリベラルになるべきだと思っている。だけど、みんながリベラルになるべきだというのは、全然リベラルな態度ではない。これは多文化主義の隘路と同じです。大澤さんの元々の関心に即して言えば、たぶん身体の問題と関係していると思います。つまり、身体にはある種の両義性というか、たとえば利己的な人間であればあるほどある種の利他性を持っているというような、矛盾した性質がある。そういうことを人間は体感できていて、実際そういうふうにコミュニケーションをとっているんだけど、言説レベルで普遍性を構想しようとすると、その両義性を捨象してしまうわけですね。そして、その捨象した可能性が後で再来する。再来したときには、変なカルトとかナショナリズムみたいになって戻ってくる。それが僕の考えなんです。
 ひとつのことにしかコミットできないんだけど、他のコミットへのちっちゃい想像力をもつことで倫理を立てるのだ、というぼくの結論は、大澤さんの話に引きつけて言えば、身体の持つ力を最終的に倫理の根拠にしようということですね。

「意味から強度(体感)へ」と書くと多少違うかも知れないが方向性は同じでしょう。「普遍性を介さないで他者への生への寛容さをどう組織していくかが、倫理の重要な問題」(東)として、そのフックの仮説概念が大澤さんの「第三の審級」であり東さんの「プレイヤーの視点」だと言うことです。誰かが好きになることは、誰かを捨てることになる、でも、それはどうしようもないけれど、捨てた彼氏(彼女)への想像力をちょいとでも、持つということです。その隙間に倫理が生まれる。

東 ローカルな時空に身体が埋め込まれているということをどう実感するかというと、ひとつはやはり、生殖の問題だと思います。家族を持つということは身体が増えるということです。身体が一個しかないときは、人はむしろ、自分の身体性を忘れて普遍性を構想できる。ところが他者の身体と交わって別の身体ができてしまうという現実が、自分の身体を強烈に意識させる。ぼくの体はぼくが制御できると思っているけれども、そこにはすでに他者性が入っているわけです。つまり、人間の身体は個人としてあるのではなく、主体としてのぼくとは無関係な連続性のなかに埋め込まれていて、しかもそのことが社会を動かすうえですごく重要な役割を果たしている。そのことについて考えないと社会がどうしてこういうことになっているのかわからない。これは本当は常識かもしれない、ぼくは恥ずかしながら子どもができてようやく気づきました。
 社会契約論では、やっぱり個人が単位なんです。個人が社会と契約するという発想で考えるから、今までの社会哲学はうまくいかなくなったのではないか。その意味で、大澤さんがおっしゃる「外に通路が開いている共同体」というのは、面白いと思います。

 東さんにとって子どもは大きかったのですね。「身体というのは、閉じているようで開かれている。この両義的構造が、いろんなレベルで見られるんですね。それはときにはあるものが自分にとってアイデンティティの根拠になるような集団になったり、あるものは敵に見えたりといった、ダイナミズムとして現れる。そういうダイナミズムの中の顕著な一つであり、かつ近代社会を特徴づけているのが、ナショナリズムなんです。」(大澤)
 僕は「プレイヤーの視点」、それは「偶有性の問題」でもあるのですが、そこから色々と考えたいです。