夢と戦争

 月刊『オルタ』7月号に掲載の平井玄のコラム■「夢を憎むこと」(PRIDE OF X (2))は、《「31歳。希望は、戦争。」は、かって私自身の言葉だった。》から始まる。
そして、その結語は夢を憎む。
 ■路地の戦争。一九七四年八月三〇日、丸の内の三菱重工本社ビルが爆破された事件で、著者は心の軌跡をトレースする。

  私はますます夢を憎むようになっていた。ところが、どうやらこの頃からあの「戦争」への餓えるような欲望が薄らいでいったようだ。殺され傷つけられた人たちへの罪責というだけではない。むしろあの「戦争」こそが一つの「夢」だったのではないか、と。
 今日、人は夢によって支配されている。夢を、無意識の領域を操ることこそ、力を握るものたちが日夜心を砕いている最重要事項である。意図しなかったとはいえ八人の死者を出し、砕け散った窓ガラスが降り注いだあの映像は、私の中に一つの心像として棲み着いた。そしてそれは、強い力を持った「夢」として私を支配するようになったのである。
 私は今も夢を憎んでいる。夢見る人々を憎み続けている。そしてだからこそ、あの「戦争」から遠ざかることになった。

 それでも、夢を、希望を封印して生き延びることが出来るネズミに成り得るのか、「ネズミになる夢」も困難だ。いや、夢を断念した生き物が「ネズミ」と言うのか?
 夢が戦争を生むのだとしたら、平和ってナンダロウ?
 ネズミ算式にネズミたちが増えてゆく。「ネズミたちの平和」
 夢に対してNO!と言えるのか、言えなければ、平和は遠のく。
 僕にはわからぬ。ただ、もっと、ジジィになっても、例え「毒が盛られた夢」であろうとも、
 飲み干すであろう、そんな中途半端な「夢見るネズミ」(ミッキーマウス)で、この世をオサラバする可能性が大だ。
 「夢を売る」ことが、「戦争を売る」ことに接続する回路がある、そんなシステムに生きていることは間違いない。そも、そも、新であれ、なんであれ、資本主義は夢を欲望する。
 江戸幕府の215年の鎖国は恐るべき知恵だったかもしれない、あの開国の日からグローバリズムがスタートしたのでしょう。
 参照:『VOL 02』(以文社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG