僕の脳内もちょっぴりスッキリしました

 id:ashibumi68さんのエントリー『〈究極の流動性としての戦争〉についての覚え書き(2)』を読みました。前回の『〈究極の流動性としての戦争〉についての覚え書き(1)』に続く長文の論述なのですが、腑に落ちることが沢山ありました。とくに「下からのネオコン」と「<セカイ系>的想像力」とつなげて、「戦闘美少女」を呼び出して、

セカイ系〉の物語では、男の子の代わりに戦って世界を救ってくれるのは、トラウマを抱えたため、だめな主人公を予定調和的に必要とせざるを得ない「戦闘美少女」になるのだが、そうであるならば、赤木氏が求める、全面戦争状態の只中で皆を庇護して、生活の安定をもたらしてくれる〈強者〉というものもまた、そのように都合よく各人の面倒を見てくれると同時に、荒々しい戦場で代わりに必死に戦ってくれる、慈愛に満ちた存在となるのではなかろうか(彼の専業主夫志向の根底には、そういう「戦闘美少女」への願望が控えているのかも知れない)。多分、イメージされている〈強者〉がそのように女性的で〈弱者〉には優しい存在だったからこそ、〈下からのネオコン〉などという、〈弱者〉である貧者自らが戦争の全面化を期待し、しかも、そこで自分のために(代わりに)勇ましく戦ってくれる〈強者〉を待望してやまないような、新しい形態が可能となったのだろう。

 かように書くのですが、僕は思わず、心の底から笑って(共感の…)しまった。《この種の〈セカイ系〉の物語は、傷つかないために戦うのを回避した「95年の思想」と、対照的に勝ち負けの戦いに耽溺する「ゼロ年代決断主義」との間に存在した、あくまで過渡的な形態でしかないそうだ。》
雨宮処凛赤木智弘を対比して検証すると色々な面が浮かび上がるでしょうね。

この世代は戦うことにすぐに足を掬われてしまい、それを実効性が何もない、単なる勝ち負けや、互いを排除し合うだけのゲームに矮小化してしまうからだ。赤木氏が抱え込む過剰な情念は、決してそういう矮小化されたゲームのうちには解消されないと思われる。そしてこの点をめぐってすぐに思い出されるのは、彼と同年齢の雨宮処凛氏のスタンスだ。彼女は本来、非政治的なメンヘル的情念の持ち主だと思われるが、現在は、そういう情念をすべて戦うことのうちに、しかも一番地に足がついた戦い方である、実際の権利保障の獲得や、法制度の具体的な改善のための闘争(現実的な社民政治)のうちに注ぎ込もうと努めてやまないでいる。多分、そういうところに注ぎ込めきれない過剰な情念を、赤木氏が体現しているのだろう。

 id:ashibumi68さんなりに、〈快楽−政治〉の中心問題(d:id:ashibumi68:20070807#1186522027)に絶えずアクセスせざるを得なくなるだろうという回路を用意してくれているのですが、僕なりの宿題として考えてみます。
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