何かが変わりつつある。

世界 2007年 11月号 [雑誌]

世界 2007年 11月号 [雑誌]

 赤木智弘本キャンペーンブログのコメント欄が結構盛り上がっています。まあ、いいことですけれど…)、
 どうも、赤木さんの雑誌掲載文のみならず、ネットで彼がコメントしたことを精査しないで、自分の文脈で勝手に誤読、、偏読して自分の言いたいことだけをイシューしているのは、又かと思ってロムするだけでも疲れてしまうw。
 荻上チキの『ウェブ炎上』に書かれていたことの具体的な例証が拝見できるだけでも感謝しなければならないのでしょう。
 chikiさんが本書で、それぞれ、みんなが変換を拒否する世界観(リベラリズムの語彙体系・フェミニズムの語彙体系・ヤンキー系語彙体系…、etc)に基づいた解釈を行う。誤読・誤配はあたりまえの事態だと踏まえた上で、2006年7月の人気お笑いコンビ「極楽とんぼ」の山本圭一の事件で火がついたサイバーカスケードのケースを取り上げているのですが、

そのような場合、適度な解釈が行われない限り、今回の騒動のように一方通行的な罵詈雑言や、悲劇的なディスコミュニケーションが生じうることでしょう。
 もちろん、このような討議の場に、便利な翻訳ソフトは存在しません。では、ウェブを、討議における適切な翻訳装置を機能させるためにはどうすればいいのでしょうか、

 勿論、完全無欠な翻訳装置なんて存在しないのだから、せめて、受け取る側が発信する前に、ほとんど間違いなく誤読、偏読しているんだと、その批評点をまず自分自身に向けて、考え抜いた屈折度を加えたイシューをしたいものです。僕自身、最近とみに感じることですが、本を読んでいても、若い頃と違って自分自身の世界観がより強固(頑固)になっているためか、著者がこんな風にイシューしようとしているのに、それについて意識下に近いところでわかっているのに、あえて気付かない振りをして、自分の世界観で本を読んでいる傾向(濃度)が段々とひどくなりましたね。反省ですよ。
 話が飛びますが、憲法解釈は悩ましい問題です。pataさんのブログで「『世界』小沢論文について」に触発されて、記憶にないくらい、多分、何十年ぶりかで、「世界 11月号」を買って読みました。(図書館で時々は読んでいたから、別段買う必要はなかったのですが、本屋で中々手に入らなかったというpataさんのコメントがあったから、買っちゃえ!てなったのですw)。
 小沢の解釈は良し悪しの判断は置くとして明快です。

つまり、個々の国家が行使する自衛権と、国際社会全体で平和、治安を守るための国連の活動とは、全く異質なものであり、次元が異なるのです。国連の平和活動は国家の主権である自衛権を超えたものです。したがって、国連の平和活動は、たとえそれが武力の行使を含みものであっても、日本憲法に抵触しない、というのが私の憲法解釈です。

 勿論、国連の要請ではなく、アメリカの要請なら違憲であるのは当然。イラク特措法の根拠とされている国連決議1483号(2003年5月採択)は、米英の治安維持を認めただけであり、多国籍軍の設置をオーソライズしたものではありませんとして、

私の主張は、国連の決議に基づいて参加する活動は日本憲法に抵触しないということですが、合憲ならなんでもやるということではありません。国連の決議があっても、実際に日本がその活動に参加するかは、その時の政府が総合的に政治判断することです。それは政治のイロハです。

 他の記事で、雨宮処凛が『ロストゼネレーションの仕組まれた生きづらさ』も面白かったです。雨宮さんの「生きさせろ!」は、立岩真也を拠点リーダーとして立ち上げた、アカデミックな『生存学』と接続すれば新しいダイナミズムの局面が生まれると思うがどうでしょうか?小沢論考にも≪紛争やテロの根底にあるのは貧困という人類の根本問題だ、≫と述べている。 病や、老い、障害などと不即不離に「貧困問題」がある。当然、生存学において「貧困」は避けて通れないものでしょう。