「家族のために」


 昨夜から、『亀田父子 JBCに謝罪 大毅選手、無言の会見』を見せられたが、取りあえず、丸坊主、取りあえず謝罪で、こちら側に亀田親子の本音が届いていない、常にオール・オア・ナッシングの生き方を貫いているなら、最早、このボクシング業界から「ハイ・サイナラ」と三行半を下せばいいのに、その潔さもなくて、無様な自己防衛に終始している。だからと言って、俗世間と摺り合わせて世渡りするのが、イケナイと言っているわけではない、生き延びるための処方箋として、ついたり、ひいたりして「九勝六敗」の生き方は本当の勝負師だと色川武大(アサダテツヤ)も書いていたが、僕もそうだと思う。
 僕が一番、許せないと思ったのは、「切腹する」と言ったタメ口でした。1970年、三島由紀夫は割腹自殺したわけですが、あの事件がある数日前でしたか、本屋の同僚達と仕事が終えて三島由紀夫について喋っていたのです。(当時、三島由紀夫の本は必ず売れたから、いつもアンテナを拡げていたのです。)そこで、話題になったのは、カッパブックスから発売された三島の『葉隠入門』(1967年刊)でした。僕と誕生日が同じ(だからと言って、どうだと言うわけでもないんですが)の三島由紀夫にハマッていて、彼の本は愛読していたのです。でも、自衛隊に体験入学したり、「武士道」を声高に喋ったり、私兵をもったり、画像にあるような演説を聴いていたり、そのような流れで「ついてゆけないなぁ」と引き気味の喋りをみんなとしていたのです。
 そして、結局、行動を起こすしかないんじゃあ、ないのか、最早、あとに引けない、店頭でも従来の三島由紀夫のファンから戸惑いをうかがわせるものがあったし、ものスゴク悪い予感があったのです。
 それから、数日後、事件が起きたわけです。僕の感想では「やっぱし」でした。これで三島由紀夫は「生きた」と思いました。世間に刃をつきつけたわけですよ。
 おそらく、亀田大毅の「切腹」という言葉に不快を感じたのはそんな経緯もあるかもしれない。亀田一家にとって三島由紀夫は遠い存在で、名前さえしらないかもしれないですね。三島がとにかく「国のために」切腹して、落とし前をつけたことは間違いない。亀田一家は「家族のために」、どんな落とし前をつけようとしているのでしょうか。
 しかし、あの「取りあえず謝罪会見」は、「家族のために」なっていない。意外とあの父親はメタなパフォーマンスをしたわけではなく、マジだったんだろうね、武田徹オンライン日記で書いているように、誰か主役の仕掛人がいたわけではなく、マスメディアの構造の問題が底流にあると思う。勿論、世間も…、

情報操作を個人がマスメディアを使ってしているというような素朴な構図で現状を考えるべきではない。マスメディアシステムが個人の(本人がそう信じる)主体性や自発性をも内部に従えて展開する。そんな構図があるのであればぼくは個人を回復させる方法を考えてみたいと思う。沢尻や亀田一家は「個人」だし、この場合、マスメディアシステムとは放送局員ではなく、局員も「個人」である。彼等の主体性や自発性を回復させることは、やはりシステムに対して個人を屹立させるということに他ならない。

 武田さんのような主張はメディア(個)人が、「明日に死すとも可」という矜持をもつしかないと言っているのでしょう。
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