ああいうのもたまにはいるさ

 今市子の『大人の問題』、『あしながおじさんたちの行方』を読む。クイアについて僕はなかなか理解していない部分があるが、確かに「クイアファミリー」の物語として捉えてもいいのかもしれない。読んでいても、読み終わっても、「幸福な気分」になれたのは何故だろう。
 子どもの頃は劇画で育った世代だから、手塚治虫でさえ、あまり縁がなかったですね。だから、更新された「ゲンダイモンダイ」の「日本の漫画論 前編」では、戦後の日本の漫画史を手塚治虫で始めているみたいですが、僕の個人史では、小学校の頃、学習塾と兼用の本屋さんが、貸本もやっており、授業が始まる前に、立ち読みするわけです。それが平田弘史であったり、白土三平であって、手塚治虫であった記憶がない。
 そんな僕だから、芳文社の「初音コミック」はもとより縁がなかったし、これからも縁がないだろうと思っていたが、同時共振っていうか、別方向から、「今市子」って面白いという声があって、偶々地元の図書館のコミック棚に『大人の問題』、『あしながおじさんの行方』があって読んだわけですが、錯綜する縦横無尽の性のクイアは不快ではなく、とても気持ちがいいのです。もっともっと、開かれた自由な発想をしてもいいんだと思う。
 赤木智弘深夜シマネコで、「横の連帯」「縦の連帯」 がエントリーされたが、「縦の連帯」っていう「ありえなさそう」な発想をしているが、着眼点は「お!」と思わせるものがある。それは立った今、読み終わった『あしながおじさん達の行方』の余韻かな。赤木さんが、「縦の連帯」をピックアップしたことは、ある種の開かれた風通しの良さに向かう余裕が生まれたことによる視界が広がったと好意的に解釈しますね。

 『大人の問題』のなんでもありを受け入れる鷹揚さと、『百鬼夜行抄』の、大人数ゆえの焦点のあいまいさ、という点が同質さを感じるのではないかな、と。 少数精鋭(?)の核家族では、関心も集中しがちだけれども、昔の大人数の一族の中では 「ああいうのもたまにはいるさ」みたいな容認のされ方もあったかな、と思うんですね。己のアイデンテティみたいなのを模索するときも、今の家族では親ぐらいしかモデルがないけれど、もっとゆるやかな結びつきの中にたくさんのモデルを持っていると、ああいうのもありか、という共感を得られることもあるのではないかと思ったりして。
 それを血族でやらなくても、規範によらぬゆるやかなむすびつきを得るモデルとして『大人の問題』はたいへん示唆に富んでいるような気がします。

 マイミクさんからの引用を一部アップしました。