小説の誕生(又ひとつ)

文藝 2007年 11月号 [雑誌]

文藝 2007年 11月号 [雑誌]

 第44回文藝賞磯崎憲一郎『肝心の子供』、丹下健太『青色賛歌』に決まったが、丹下健太の小説は今時の若者、彼は就職氷河期世代にあたるのであろうけれど、小石を集めてキャプションって言うか、日記メモっていうか、そんなタグをつけて日々暮らす恋人と殆どセックレス状態であるけれど、何か満ちたりた、その恋人からせつかれて、束の間、同棲の恋人が可愛がっていた猫をビラまで作成して主人公はフリーター仕事の合間に街中を探し回るのですが、時たまその猫探しが「自分探し」みたいなものに重なる。
 あくまでユーモアたっぷりで、軽快なリズムがあって、主人公は正社員になってしまうのであるが、一方友人の一人は正社員であったのに、退職してフリーターであることを選ぶ、そんな往還を「あっち」と「こっち」という意味還元を厳密にしない言い方で、「あっち」と「こっち」を溶解させるフリーター/正社員小説とも読めるが、そんな窮屈な読み方はしない方がいいのでしょうね。
 フリーターとしてのアジテーションとかメッセージは赤木智弘の『若者を見殺しにする国』に任せますか、
 『肝心の子供』の選評は尋常ではなかったですね。特に選者の保坂和志は《選考委員は一読者として、「この小説を受け入れることができる能力を持っているか、そうでないか」という逆の、試される立場に立たされることになる。」》と言い切ってしまう。選者が試されているとは、怖るべき小説と言うしかない、作品が文学史上の「事件」になったというしかないでしょう。
 読了した感想は、勿論そこまで明確に書いていないが、逆進化論って言うか、輪廻転生とも違う。その前に僕が読んだ松浦理英子の『犬身』の余韻もあるかもしれないが、ひょっとしてブッタの孫は「人にあらざるもの」、保坂さんは、《ブッダの孫にあたるとされる男が猿になってしまった話》と読んだみたいですが、鷲でも鷹でも鳥になってしまったとも飛躍が出来る。それは猿→鳥という進化の逆まわり、逆まわりではなく、「人から猿」、「人から犬」、「人から猫」、「人から鳥」のような変換も進化ではないかという妄想みたいなものが僕の読後感にありましたね。
 輪廻転生とも違う、前世に善きことをしたから、ミミズになってもいいわけで、ピラミッド型の進化の階段を無化する妄想なんです。そんな思わぬことを考えさせてくれた小説でもありました。勿論、色々な読みがあるでしょう。読み手の深いところを刺激し、驚かせる小説に間違いない。
 生まれ変わって又「人間」になることがそんなに良きこととは思われないところがあります。勿論、「神」、「仏」にも、理英子さんは、「犬」ですが、僕はボードレールの自堕落な「猫」になりたい。理英子さんは「種同一障害」みたいな分析を試みていたが、『肝心の子供』はそういう精神分析を受けつけない。時空を超えて神話的な世界が立ち上がってくるのです。

 この作品がブッダの実話に材をとったかどうかということは、文章の強度・密度をみれば一目瞭然で、そんなこととは別次元にある。一文一文が未知で不確定な世界に分け入ってゆくこの作品の文章の強度は、まさに小説というフィクションでしか実現しえないものだ。30年以上にわたる歳月が強靱な消化力で飲み込まれるといえばいいか、非情な何物かの力によって押し流されるいえばいいか。目に見えるくらいの具体性を持った細部とボルヘスのような思弁が違和感なく接合され、自我や個人の生の一回性など楽々乗り越えられてゆく。この作者は素晴しい身体性を持ったボルヘスに違いない。−保坂和志文藝賞選評』よりー

 磯崎氏自身が書いている小説論(ふたつの)の受賞の言葉も面白い。

 ひとつは、小説とは現実に先行するものでなければならないのではないか? ということ。――数年前までの私は、現実の過去のなかには記録されるべき場面が確実に存在するのだから、それを地道に描写することである程度まで保存できていれば、小説としては及第点なのではないか? と思っていた。つまり小説は現実の内側にある、と考えていたわけだが、いまではまったくその逆で、小説は現実に先立って、現実を引き寄せるようなものでなければならない、と考えている。事実として成立し得るかどうか? ではなく、書かれた瞬間に「もう、そうとしか思えない」ものとして成立してしまう、それこそが小説なのだろう、と。
 もうひとつは、小説という完成されたジャンルにおいては、無理に新しさを求めてはならないのではないか? ということ。――たとえばロックというのは、異常な速さで誕生から成熟・完成に至った音楽で、1950年代半ばに誕生して68年から72年頃にはジャンルとして完成している。ならば小説というジャンルが完成したのはいつごろなのか? と考えると、それはやはり1920年代なのではないか。完成されたジャンルにおいては、前衛的な要素はむしろ邪魔する。小説にもともと内在する力に寄り添って、その力に作者は身を任せなければならない。逆説的な言い方になるが、無理に小説に新しさを求めないことこそが小説を再生し続ける、ということなのかも知れない。

 『文藝・冬号』は笙野頼子特集で、笙野頼子の圧倒的な存在感が凝縮されたガイドブックにもなっていて、読み応えのある一冊ですね。