「自己責任的「貧困」/関係性「貧困」/構造的貧困」

kuriyamakouji2007-10-28

 月刊誌『オルタ』の短期連載「PRIDE OF X」のコラムは毎回筆者が変わるが今回(10月号)は雑誌『フリーターズフリー』のメンバーでもある栗田隆子が『「構想的貧困」を本気で考えるために−−無力からの出発』という気になるコラムを書いている。僕は「自己責任的「貧困」/関係性「貧困」/構造的貧困」という関連がアタマにあって、簡単に自己責任には勿論、構造的なものにも還元出来ないところで新たな一歩の切り口を捜すしかないのではないか、それがどうやら、「関係性ではないか」と考えている僕としては、栗田さんのこの一文は腑に落ちるところがありました。
 一部を引用します。赤木さんは、「縦の連帯」、「横の連帯」という言葉を使っていましたが、縦も横も含む「縦横無尽」というイメージが「関係性」にはあると思われる。

 貧困を「自己責任」ではなく社会の「構造」として促えようと、「構造的貧困」という言葉も生まれている。その姿勢はとても重要だとは思う。しかし「構造」という言葉を「免責」のためだけに使用していったとしたら、それはひどくさみしい光景だ。私は、わるくない。そうだ、わるくない、わるくない、わるくない……。その光景から見えるものが結果として自分を責める「敵」か自分を許す「同志」だけであるならば、なんと世界の幅が狭くなってしまうことだろう。
 そうして、フリーター問題は流行(のよう)になり、流行が過ぎ、マス・メディアが取り上げなくなったとき、フリーター問題も解決されたと見なされるのではないか、半ば被害妄想気味に思ってしまうのだ。フリーター問題がただの「時流」と化した時、フリーターが、否、「仕事」からあらゆる形で馴染め得なかった(ように見える)人々が、フリーターとも、名指されず、ただの名指しに戻り、無関心という暴力に晒されていくのではないか、と。

 そのような無関心の暴力から、id:leleleさんが書いているように抹殺されない刃には成りうる一冊の本(赤木智弘著『若者を見殺しにする国』)としての編集者の強い思いの一端があったことは間違いない。

 とはいえ、この「不安定労働」という問題は「流行り」の問題では決してなかった。常に常に取り残されてきた。だからこそ形を変え、気味の悪い不死鳥、あるいは鵺のごとく、何度も何度も出現してくるように見える。
 それこそ元来は「構造的貧困」を考える立場であろう行政機関等が、「構造的貧困」を打撃するのではなく、常に「個人」としての「貧困者」を打撃しているのだから(公園に住んでいる路上生活者に対し、有無を言わせず「代執行」という名のもとに排除していく構図は、何度も繰り返されている)、この国では「構造的貧困」などというものを「認識」すること自体が難しいことなのかもしれない。それゆえ「構造」という言葉を自己免責のために使うだけでは、実に狭く、もったいない話なのではないだろうか。
 もっと言おう。フリーター達が自己責任だと思いたいというその背景には「自分にはこの事態を改善できる力がある」と思いたい、自分の力を信じたい、そういう切ない願いがあることを、無視したくない。その願いのなかに「構造」という言葉が入り込むことは、実はとってもとっても残酷なことなのだ。「社会人」などという恐ろしい言葉があるが、「仕事をする」ことが「社会人」になるということであれば、その「社会」に「構造」というものが存在しているのであれば、「自分」の力というものをどれだけ尽くし、足掻き、頑張っても、「お前は無力」と突きつけられることに等しい。自分がどんなに足掻いても「逃げ場はない」ということを、身をもって知らされることだ。

 関係性の中で人は生きるんだと、そこ以外の場所はどこにある?出家も一つの選択肢かもしれないけれど、そうでなければ、不断に他者を見いだし、関わって生きるしかない。そのことが「社会人になる」ということなら、それは結果に過ぎなくて、どろどろと「関係性の中で生きる」ことが、「自己責任」とか「構造」とかそんな賢しらな分析より大事なことかもしれない。

 だからこそ、私が働ける場を創りたい。正直私が働いた方が却って他人に対して迷惑となることもある。迷惑になるから働かないのではなく、だからこそ働きたいのだ。仕事における「迷惑」や「トラブル」のなかに潜む力を認めることが「無力」であること、そして関係を持つ「苦労」の出発点だ。そしてその力が「個」と「構造」の両方を変えていくのだと、時に投げやりに、時にマジメに信じながら、少しずつ、本当の意味で多様であること、そしてその面白さを具現化してゆきたいと思っている。

 そのような働ける場がこのうようなグローバル化が進展してゆく新自由主義システムの中で可能かどうかは、己の実存を摺り合わせて、いまあるこのシステムを(超資本主義社会と呼ぼうが無痛文明社会と呼ぼうが)メタ的に玩弄するぐらいに凝縮して<遊ぶ>(働く)になる余白を持つことだと思う。たかが、この「世の中」ではないか、怖れずに足らずでいいのだと思う。
 参照:書籍出版 双風舎