時間の簒奪

建築する身体―人間を超えていくために未完のレーニン 〈力〉の思想を読む (講談社選書メチエ)若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か[rakuten:book:12517409:image]
『論争って?』のエントリーのコメントはミクシィの方になされているので、(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=622531612&owner_id=588908#comment)会員でない方はロムできませんが、結局、マイミクさんが、あの会場には「磯崎新」がいなかったんだと、おっしゃって、二年前に荒川修作磯崎新が対談(http://reikoyamamoto.blogzine.jp/ynot/2005/05/_vs__3eda.html)したレポのページを教えてくれました。何となく腑に落ちるところがありましたね。勿論、又、新たな問いも生まれたのですが、
取りあえず、ここのコメント欄で僕の部分の一部だけ、ここに公開してみます。やりとりなので、前後の意味がミクシィ会員でない方は判読できないかもしれませんが……。

目の前の本棚に差してあります。でも、あまりそういうものを読んでも、アタマの整理にはいいのですが、驚いたり、感情を揺さぶられたり、そんな本を読んでみたいと思います。小説ではなくともいいのです。 harutoさんが、あんまり、コメントで白井聡について書くもんだから、『未完のレーニン』を読んだのですが、予想以上に良かった。 多分、荒川修作の「死なない」につながる気がする。過去と未来を繋ぐ「時間軸」について、レーニンの革命を論考しているわけ。社会学者にしろ、多分、あなたもそうだと思うのですが、現実理解が「空間」(領土)にあると思う。その比較考量の上にたった最適化が、どうしても相対化の視点を入れざるを得なくなる。良くも悪くも修正主義者なのです。でも、偽日記さんは、そのような空間に関心がないのだと思う。だから、講演でもあんな風に荒川修作のことが気になったのだと思う。 戦争は「空間」(領土)の取り合い、革命は「時間」の簒奪。
荒川の「共同体」はそのような時間軸にのったものだと思う。空間ではない。多分、そのようなことを考えると、問いがエンドレスに生まれる。

 赤木智弘は『若者を見殺しにする国』の第四章「私が戦争を希望する理由」の中で(p222)自分にとっての一生の宿題であり、問いだと2つのことを上げている。

(1)戦争は、それ自体が不幸を生み出すものの、硬直化した社会を再び円滑に流動させるための「必要悪」ではないのか。戦争がなくなれば社会が硬直化、すなわち格差が発生し、一部の人に不幸を押しつけることになる。ならば、戦争がなく、同時に皆が幸福な社会というのは、夢物語にすぎないのだろうか?
(2)成功した人や、生活の安定を望む人は、社会が硬直化することを望んでいる。そうした勢力に対抗し、流動性を必須なものとして人類全体で支えていくような社会づくりは本当に可能だろうか?

 赤木さんより若い少壮の学者である白井さんが、この赤木さんの問いに一つの解として『未完のレーニン』が生まれたとも言えるし、荒川修作のアクションもそのような一つの解なのであろう。「空間」(既得権益)の取り合い(再分配)の横軸から、位相を転換して、「時間の簒奪を試みようとする運動なのでしょう。それは、「世界は金である」という私的私有財産の資本制をオサラバして、過去、未来を繋ぐ「死なない」の生き方なのかも。そういう感性から磯崎憲一郎の『肝心の子供』を読んでみると、「時間簒奪」の本とも言える。