「隣人を見殺しにする国」にレス

花よりもなほ 通常版 [DVD]

花よりもなほ 通常版 [DVD]

 追伸:下記に書いたことは是枝監督の『花よりもなほ』につながるんじゃあないかと、思ってしまい映画は見ていますがDVDでもう一度、見たくなりました。
 ◆id:anhedoniaさんが、僕のプロフィールの一行にトラバしてくれたのですが、色々と考えることがあって、長々とコメント欄にカキコしてしまいました。即興反応のような未整理のカキコなので、僕のエントリーに修正、校閲しやすいように僕のコメント部分だけコピペします。最近は、ここのエントリーより他の人のブログなりミクシィのコメントカキコの方が興に乗って長文になりますね。他の人のブログを読む方が新たな気づきがあって、僕自身のマッサージ的自己改造をやってもらう心地よさがあるのかもしれない。全体の流れを確認するためには、こちらを(http://d.hatena.ne.jp/anhedonia/20071217/p1
【僕のコメント】

 (1)紹介をどうも。。。僕の知人の団塊の世代のオヤジに息子が二人いるのですが、そこそこに経済的な余裕があり、子供達が中学生になった頃、一軒家を購入して息子達にそれぞれ、個室、オヤジは書斎を設けてこれから実現可能な夢ある人生設計が始まる予定だったのですが、息子のひとりは不登校から引きこもりになり、兄貴はなんとか大学を卒業したが、いわゆるニートの道を邁進中で、パチンコ、競馬にハマッテいるみたい。だから、経済的余裕があっても、息子二人がオヤジにパラサイド状態で、ペットを飼っているような状況ですね。だから、そんなのを見ると、富裕層でも子供を持たない方が良いと思う人がひょっとして増えているのかと思います。その知人以外に、僕の周りを見ても、経済的余裕があっても(特に女性が多いですが)、結婚していない人が多い。結婚している人でも、子供を作らない人も多い。佐世保のニュースを見ても、被害者のご両親は当然のことながら、加害者のご両親の方も無惨ですね。お金があろうかなかろうか、子供を持つこと自体が「怖い」という社会環境はマットウではない。埴谷雄高が子供を作らないという条件で結婚したでしょう。結構、文化人でそういう人が多いみたいですが、庶民でそんなノリが文化意識(習慣)として根付くと怖いね、お金をもらっても「子供が欲しくない」っていう状況になれば、異常ですね。まだ、お金がないから結婚しないのは健全です。お金があっても、結婚しない、結婚すれば、子供をつくらなくてはいけないっていうプレッシャーがかかるから、本音のところでは、子供が欲しくない、そんな無意識があるような人が結構多い感じが最近します。「隣人を見殺しにする国」は不幸です。でも、どの国も豊さと引き換えにそんな不幸を選択しているような気がします。まず、「隣人を見殺しにしない国」の社会デザインがまず先にあって、そのことの競争原理が働ければいいのになぁ…。
 (2)近代個人主義的資本制社会にあっては、当然、自己責任が核にあります。そのような自由より、封建的身分社会にあって、お上や庄屋の徳を信じてパラサイトする安心・安全な生き方もそんなにおかしなシステムではない。分に相応した与えられた人生が用意されていたから、プチ知識人になる必要もなかったし、寺後屋で読み書き算盤で充分でした。そして、お上として生まれた子弟は三つ子から四書五経を勉強させられたわけでしょう。そのような大まかにわけて二つの階級の社会は、今のように、誰もかも大学に進学し建前としては、みんな同じスタートラインに立てて、競争出来る。そして、勝ち組・負け組の二つの階級を作る。そんなんより、江戸時代のように最初から二つの階級を別々のスタートラインとして、設定した方が、ある面では優れた社会システムかもしれない。このような社会ではフリーターのような単純労働をしても、自己責任の負け組のような後ろ指さされる心配はないし、不審者と思われない。ゴミ拾いはゴミ拾い屋として社会的地位を確固たるものにしていた。落語の長屋の世界って、なかなかいいもんだと思ってしまうところがありますね。武士社会は結構大変だなぁというところもある。明治以降近代日本として、獲得したものが、現在のような自己責任を核として「格差社会」なら、かっての封建的身分社会の「階級社会」と比べた場合、五十歩百歩ではないかと言う問いが僕には生まれます。階級社会(身分社会)の代わりに「格差社会」が生まれただけで、「格差」で欲望を遂げたいという所詮、「隣人を見殺しにするような」差異を望んでいるようなところがあるのでしょうね。そして、出来る限り自分だけ、自分の目の届く範囲だけでも「無痛文明の繭」の中で微睡んでいたいという甘き欲望。
 (3)少なくとも封建的身分社会にあっては、お上に徳が内在規範として仕込まれたのに、格差社会にあっては、ヘタに徳のある人は「勝ち組」になるにはハンディとなる懸念がありますね。そして、徳のない人が勝ち組になって、いわば、お上になって、下々に徳を要請する。こんな腹立たしい事例があまりにも多すぎる。市場原理も八百長めいたものがある。

 そして、宙に浮いた「自己責任」の着地点が、一発の銃声でもあり得る。又は「リストカット」の自傷行為に行き着くとしたら、無惨である。
 武田徹のオンライン日記の<現実>から「現実」に逃避する にも繋がる回路だと思う。この場所から逃げるのではなく、この場所へ深く抉るように向かう。

 参照:銃が問題なのか?(双風亭日乗)