サプライズ!のジングルベル

イエスという男 第二版 増補改訂

イエスという男 第二版 増補改訂

 先日、かぜたびさんが、『風の旅人』を御歳暮に使うといった読者からのサプライズ報告がありましたが、サプライズは時には怖いこともありますが、嬉しいもんですね。僕の最近のサプライズは先日、ブックオフに行ったら、もう読んでいるのですが、どうしても手元に欲しい大澤真幸の『虚構の時代の果て』(ちくま新書)を見つけたことでした。この新書はもう新刊で手に入らないのです。今年、大きな賞を『ナショナリズムの由来』(講談社)でもらい、この分厚い本も平積みしている小さな街の本屋さんもあることだし、大澤真幸の重要な一冊である新書が重刷されないのはモッタイナイ話です。
 過去ログで、そんなリクエストを書いたことがありますが、それから、数年経ってブックオフで見つけたわけ。勿論、わざわざ、探しに行ったわけではなく、そんな無意識ゾーンに保存している書籍データがあるわけですよ。偶然、目にとまることによって、サプライズのドーパミンが分泌するわけ。そんな脳内刺激は心地良いものです。
 それから、こちらは、緊張したサプライズですが、bk1の常連レビュアー塩津計さんの赤木智弘『若者を見殺しにする国』の書評を紹介したエントリーをアップしましたが、それに対して塩津さんがコメントを寄せてくれたことです。確かに、僕は塩津さんに「ネオリベ」のレッテル貼りをしたことは軽率だったと思います。塩津さんも言うように、ネオリベという言い方が人口に膾炙するようになったのは、精々バブル崩壊以降であり、塩津さんの生き方そのものは、それ以前から例え僕の生き方と全然違っていても、持続していたわけで、ヘンな言い方ですが、ネオリベという言い方がなくても括弧つきの「ネオリベ」なんだろうと言う思いがあります。
 「自助」と「自己責任」の違いを検証したいという思いがありますね。誤解を恐れず言えば、「自助」の背景には小さな政府志向の「リバタリアン」、「自己責任」の背景には大きな政府の「ネオリベ」があるように感じるわけです。僕はどちらかと言えば「リバタリアン」的傾向があると思う。
 そう言う視点があるから、赤木さんの流動化宣言に「サプライズ」されたのかもしれない。池田信夫さんのこのエントリーで、「だから赤木氏もいうように、雇用形態による解雇制限の差別を禁止し、すべての労働者を契約ベースの「フリーター」にするぐらいの抜本的な改革が必要だ。」と過激にも全労働者のフリータ化を言っているが、まあ、そこまで、言えない躊躇がありますが、その微妙な戸惑いを言語化したいとは思っています。
 参照:一知半解ではなく無知蒙昧: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
 ところで、今、bk1のトップページにクリスマスも近いためか、特集「イエスを考える」というページがあって、 クリックしたら、マイミクさんのレビュー田川健一の『イエスという男』が最初にありました。懐かしい方々のレビューもアップされている。(http://www.bk1.jp/contents/shohyou/fair136
 上でマイミクさんが田川さんの言葉を二つ引用しているのですが、 とてもズキンと来る。

>人は自分が理論的に理解しえないことも、実践的にはなしうる。

なるほど、理論というものは、私たちの“生”という実践のあとを、ひいひい言いながらようやくくっついていっているだけなのだろう。

>人間の解放というようなことが言い得るとするならば、誰に強制されるのでもなく、それぞれがおのれのうちにあるある種の残酷さを克服していかなければならぬ。

そしてこの言葉は、私を戒める。

 そうなんだよね、僕は赤木論文を理論的に理解しえないところが多々あるが、それでも、知らぬ間に応援めいた一文を書いている。それが僕自身のわけのわからぬ実践かもしれない。
 そう誰に強制されるものでもなく、僕自身の裡から搾り出すものに従う感度を鋭敏に維持したいものです。そんな前提があって初めてサプライズは起る。