小説はネタではない。

新潮 2008年 03月号 [雑誌]肝心の子供[rakuten:book:10093578:image]
 『新潮・三月号』連載の保坂和志「小説をめぐって(36)」はとてもオモシロイです。保坂さんの考えて考え抜く行為(生成)は、小説はネタではなく生命(いのち)なんだということを言葉で言おうとしているのだと思う。そのことを言わんがためにと言うか、勿論、小説に意味を問うなんて分析からは、生命(小説)のアクセスできない。作品としてでしか回路はないのかも知れない。
 今回の『われわれは自分自身による以外には、世界への通路を持っていない』は、磯崎憲一郎『肝心の子供』(河出書房新社)と『ニーチェ全集第二期第九巻遺された断想』(白水社)、同『第十巻遺された断想』(白水社)を読むことで、保坂さんの小説をめぐっての考察が始る、次回も同じテキストで考えを深めるらしい。
 まあ、僕がこんな風に紹介するより『新潮・三月号』を全文読むしかないのですが、表題の『われわれ〜』についての<外界>としての自分自身は僕自身も陥穽に陥りやすいところなので、ちょいとメモします。(p154~5)

 伝統的な小説観では、明確には言語化しえないにしても、風景や天候は人物の内面や場の雰囲気を説明するものとして回収される。しかし、外界と内面という二項目に分けて、
外界……風景、天候、光量、空間の密度
内面……人物の内面、場の雰囲気、出来事の質
 じつに大ざっぱだが、こういう風に並べてみると、外界の方が内面よりも情報量が圧倒的に多く、圧倒的に複雑であることが明らかだ。ーーいや、「明らか」と思わない人も多いかもしれない。人物の内面こそが最高に複雑なものであると信じている人にとっては、風景などは人物の内面を説明する以上の何物でもないだろう。そして、間違いなく近代のある種の小説はそのような人たちによって書かれてきた。私が書いていることは「人物の内面こそが」と強く信じている人には通じないだろうが、少しでもそれに疑問や違和感を感じている人には通じるはずだ。
 二分法というのはいつも雑でしかなく、ここで私がした<外界><内面>という二分法も雑なので、枠組みの方にこだわっていると個別事例そのものを見失う。自分自身の肉体はこの二分法では<外界>の方に入れられることになる。前に引用したニーチェの「われわれは自分自身による以外には、世界への通路を持っていないのだ。」という言葉の「自分自身」もまた<外界>と考えるべき何ものかだ。とするなら、<内面>とは<言語化しうること>で、<外界>とは<言語化をこえたこと>ということになるだろう。
 風景や天候や空間を書くということは、内面を書くことではなく、内面で起る思考や感情や感覚といった人間的な領域をはみ出して、風景そのものを思考することなのではないか。『肝心の子供』に書かれている風景とは小説の起源に立ち返って、作者が偶然にも書いた「小説の再生」を促す何ものかなのではないかと私は思うのだ。 

 僕が時々覗く保坂和志HPの掲示保板で、磯崎憲一郎さんと『新潮・三月号』の「小説をめぐって」の場外版というか保坂さんとやりとりをしていますね。こちらも参照するといいと思います。
 そこで、磯崎さんが言う≪だから、151ページ上段のニーチェの引用「たとえどれほど頻繁に『同じ形式が達成される』としても、そのことは、それが同じ形式であるということを意味してはいない------- そうではなくて、現れてくるのはいつでもある新しいものなのである」という部分を読んだときには、「おお、正にそれだ!」とすごく腑に落ちました。≫は、書き手でない僕も何となく腑に落ちました。
 実際、磯崎さんは風景の描写にはなが〜い時間がかかって、観念の部分はあっさりと書いていると掲示板で言っていますね。
 ◆ところで、先日のエントリーでケータイ小説について書きましたが、ケータイ小説がもし小説ならば、保坂さんが書く≪高校・大学の頃ロックとジャズを聴きながら考えていたことは「いかにもロック(ジャズ)というロック(ジャズ)はロック(ジャズ)ではない。ロック(ジャズ)とは先行するロック(ジャズ)を否定する運動のことで、それだけがロック(ジャズ)として響く」ということで、これはそのまま小説にあてはまる。≫
 括弧内のロック(ジャズ)をロック(ジャズ)(ケータイ小説)なら、常に先行のケータイ小説を否定する運動としてケイータイ小説が生成しているなら、ひょっとしてケータイ小説もオモロイものになるかもしれないが、そうでないなら、小説ではなく、限りなく報道作品に近いものだろうねぇ。
 武田徹さんの書くように本来ジャーナリストがフォローするところなんでしょうね。ケータイ小説はネタなのでしょうか?
 しかし、「小説をめぐって(36)」で北條民雄の『いのちの初夜』が取り上げられていましたが、『肝心の子供』と全然似ていないが、ネタではない小説ということで共通だと言う。僕はこの本は保坂さんと違って好きな小説ですが、青空文庫で読めるのですね。ケータイ小説と読み比べたらいいかもしれない。ケータイも他と取替え可能ではない、若者の叫びがあるなら、ネタ小説ではないですね。
 本日のネタは…、って料理する職人芸が小説家なら、保坂さんは小説家ではないのです。(つづく)