読む気がないのに気になるケータイ小説

時代を先取りした作家 梶山季之をいま見直す―没後33年記念事業たんば色の覚書 私たちの日常みんなの恋空
 ◆海の向こうのマイミクさんからの情報で知ったのですが、辺見庸『たんば色の覚書』は、辺見さんの久しぶりの小説ですね。読んで見たい。ネタではない小説です。
 端からネタ道をまっしぐら、どんなネタにも食いついて、とにかく旬な定食メニューで料理してくれた作家といえば、梶山李之でしょうね。あれだけ多作で本屋の店頭を賑わわせていたのに、亡くなった途端に店頭から消えましたね。ある意味で見事でした。最近色々と復刊されているようですけれどね。そうか、没後33年か。
 僕の仮説ですが、トップ屋としての梶山李之は報道作品として書き上げてもそれは常に対象化されたネタであって、常に当事者性が内蔵されているケータイ小説とは全く違うのでしょうね。梶山の本はつねにベストセラーになった。風俗・情報に徹していた。そのような戯作者としての職人芸だったわけですよ。すぐに消えることをことを見越した作品作りに徹して後に澱のようなものを残してくれなかった。
 そんなことを考えると、ケータイ小説って、やはり「ネタではない小説」ではないかと思ってしまう。そうならば、どこかで、いわゆる「純文学」と繋がっているトンデモな仮説を考えたくなるわけです。
 どうもわからない、そんな宿題の備忘録として三者三様の画像をアップします。勿論、僕が読みたいのは、『たんば色の覚書』です。
 ◆武田徹オンライン日記で知った中西新太郎「自己責任世代の一途を映すケータイ小説」(『世界』07年12月号)を読みたくて図書館に行ったのですが、貸し出し中でした。残念。ケータイ小説もあったら借りようと思ったがだけど、ケータイ小説コーナーなんてない。作家の名前を知らないので、『恋空』で検索したら、作家の名前は美嘉なんですね。予想どおりありまへん。
 そのかわり、日経新聞ケータイ小説の特集記事(2月13日)を見つける。それによると、ケータイ小説コーナーを設けている書店も結構多い。いままで、本を買わなかったある作家の息子(高校生)が突然、小説を買うので小遣いをくれと言われて息子が買った本が『恋空』であった。でも、それによって小説を読む糸口になればと作家は自らを慰めていたが、どうやら、今日の記事によっても従来本を買わなかった女子中高生から二十〜四十代の女性達も買ってゆくそうですね。
 ケータイ小説サイト魔法のiらんどによると昨年十二月の月間閲覧件数が33億件で半年前に比べて60%増とのこと。男性の閲覧者も増えたみたいです。
 本を買わなかった人が買ってしまうケータイ本は、一つの運動として捉えることが出来るかどうか、それとも単なる一過性なものなのか、何か気になるんだよね。
 ↓で言及したように(2月13日)保坂和志さんの言葉を僕が勝手にケータイ小説と言い直せば、

いかにもケータイ小説というケータイ小説ケータイ小説ではない。ケータイ小説とは先行するケータイ小説を否定する運動のことで、それだけがケータイ小説として響く

 そのようなムーブメントとして動き出すのか興味があるのです。かっての梶山李之のような風俗、情報小説ではないことだけは了解しています。だから、ひょっとしたらひょっとするという予感があるわけ。