京都みなみ会館にて秋葉原を考える

 僕にはモテ系/非モテ系というカテゴリーがなかなか理解出来なくて、にもかかわらずネットでは特に若者を理解するためのキーワードらしいですが、前にも本田透『喪男の哲学史』『なぜケータイ小説は売れるのか 』を読んで二次元の世界に萌えるのが非モテ系に近いのかと思ってもみたが、そういうオタク系とは微妙に違うみたい。
 どうやら、オタクとは高度消費消費社会に背を向けて仲間同士でちまちま幸せモードで暮らしましょうというささやかなものだったが、いつの間にか美味しい消費の対象としてオタクが商品化したわけでしょう。
 僕は昔の秋葉原しか知らないが、プロ意識の高い電気街だったという記憶があります。だから、「女子リベ  安原宏美--編集者のブログ」秋葉原事件関連の記事で、「オノデンの社長に聞く」を読み、

「中国に行くと巨大な電気街があって、品揃えも豊富です。しかし、それは現代のものが横並びに揃っているだけです。縦の時間軸で考えれば、日本に勝るところはありません。たとえば私の会社には、中学を卒業して定年まで勤めた人がいます。そういう人は、同じ売り場で製品の変遷を何十年も見ているわけで、時間軸で製品知識を蓄えているのです」
 氏は、その時間軸が秋葉原の強みだという。たしかに、電気製品は耐久消費財であり、10年前に買った電子レンジと今のものを比較して説明するのは、10年同じ売り場にいなければできない芸当である。
「もちろん、こうした実力を持つ店員は、人件費から考えれば高くつくので、安売り競争には不利かもしれません。しかし、お客様への説明責任を果たし、つねに必要とされている製品を揃えておくのが、時間軸を尊重する商売の基本です。たとえば、3年前に製造が終わっているビデオカメラの電池があるかどうか、数年前に売ったエアコンの交換フィルターがあるかどうかということになれば、そういう競争には負けません。自分のところで売ったものに責任を取るということは、そういうことだと思っています」

 ここには責任販売制というのが基本にある。店員のチカラによって売り上げが変動する。出版業界も何十年前から言われ続けているにもかかわらず、思いきった改革が出来ないのは、委託・再版維持制度が「文化保護」の名の元に聖域化されているからです。「電器・IT」も文化でしょう。新聞・雑誌・書籍だけ文化ではない。仮に聖域であっても「聖域なき改革」が時には必要なことがある。そのような改革によって、取り替え可能でない労働力が要請される。そういう面もあるわけです。
 既得権益で保護された労働の場においてはダブルスタンダードで取り替え可能な非正規雇用が他方でその割合をどんどん増してくる。派遣、請負というカタチでも、大新聞社、大出版社、マスコミはそうなっているでしょう。

 が、いまそれが必要かどうか、またそれをできる人間がいるかどうか、私にはわからない。といっても、いつ信長のような天才が現れ、比叡山の焼き討ちがあるやもわからぬ。そういう時は焼けてしまえばいいのである。それはそれでかまわない。文化にしても学問にしても、その意味では非常に脆いものである。しかし、人間が何事かをやっていこうという確固たる意志さえあれば、どんな形ででもそれは続けていけるのではないか。そういう真摯な姿勢を持つ学問は残り続けるし、誰も古くさいとはいわないだろう。ー養老孟司の「東京大学革命論」(『新潮45』1987年2月号掲載)よりー

 昆虫少年だった養老さんは、オタクだったかも知れない。でも、「脳化社会」に警鐘を鳴らし続ける養老さんは自然という三次元にこだわり続けている。三次元系(モテ系=自然)/二次元(非モテ系=脳内)ならば、なんとなくモテ系/非モテ系もイメージとしてわかるのですが、若者論の文脈では違うみたいですねぇ。
 高度消費資本主義社会を全面的に受け入れるのがモテ系、全否定するのが非モテ系ならスッキリするし、腑に落ちるところがある。
 今日、京都みなみ会館で、映画『山桜』と『接吻』を連続で見たのですが、 『接吻』の小池栄子豊川悦司は、まさに非モテ系が出会いショートした過激なラブストーリーで、『山桜』の東山紀之はモテ系とも言えるが、良く考えたら非モテ系かもしれないですねぇ、養老さんに言わしめれば、江戸時代も「脳化社会」だとのこと。ただ、どちらの恋愛ドラマも号泣できますよ。でも、そういうアクセスの仕方をすると、この文脈ではモテ系は、つまんない男と女になりますねぇ。益々わからなくなります。お手上げです。