「リトルボーイ」の涙(3)

「リトルボーイ」の涙(2) - 葉っぱのBlog「終わりある日常」続いて、

広島に原爆を落とす日〈上〉 (角川文庫)

広島に原爆を落とす日〈上〉 (角川文庫)

くノ一忍法帖 山田風太郎忍法帖(5) (講談社文庫)

くノ一忍法帖 山田風太郎忍法帖(5) (講談社文庫)

 
 リヤカーの上でうたた寝している赤子はその戦艦大和に乗って、それともある作家が書いたらしい「腹ぼて・大和」の羊水に浮かんだ逸楽の追憶をむさぼっていることもあり得るが、まあそんな、安全基地より、多分、多少なりとも冒険心が上まって、モモタロウの館長となって鬼退治に出かける夢を見ているかも知れない。
 赤子の名は太郎と言った。後ろからリヤカーを押している若い女が太郎の母親で「もも子」と言う。しかし戸籍上は「於百」(おもも)と言う。小学校時代、級友たちどころか、担任の先生も、「ももちゃん」と呼ぶ前に「百」という字がよぎって、裏声で「おひゃく」と呼んでいると信じていた。多分にもも子の考えすぎだと思うが、戸籍上の名前を嫌っていたのは事実であった。もも子という名前で通し、もはや誰も「おもも」とは呼ばない。
 小さい頃死に別れた父親は、命名にあたって、講談に登場する岩見重太郎の妻?と言われる百地三太夫の「百」から「もも」を頂戴したらしい。
 そんな馬鹿なと思うけれど、だって性別はどうやら男で、でも忍者みたいだし、山田風太郎「九の一」かも知れないから、性別にこだわる必要がないのかも知れない。真田十勇士の一人霧隠才蔵の師と言われているし、霧隠才蔵もひょっとしたら女?っていう説もありますからねぇ。このところ、腐女子による「武将萌え」がヒートしているみたいだから、腐女子の誰かに訊けばアンサーが返ってくるかもしれないが、岩見重太郎は、実在の戦国武将「薄田兼相」だそうです。
 筆者のトンデモ発想では、「九の一」の女忍者は、このK市が誕生の地ではないかと思っています。K市は漁村であって、九つの嶺が海に迫っています。平清盛が開削したといわれている音戸の瀬戸が目の前にあります。「九嶺」(くれ)の反転が目、鼻、口、耳、へそ、肛門、そして、女性は男と違って、もう一つ穴が多いことから、九ノ一と呼ばれたらしい。「くノ一」の表記も「女」という字を分解すると「く」と「ノ」と「一」に分けられる事が語源とされている。とまあ、Wikiに書いているが、ナットクできるところがある。
 戦後、K市に誕生した助役は女性であって、この国では例のないことであったと聞いている。
 兎に角、「於百」は戸籍がどうであろうか、「もも子」と自らも名乗り、まわりのみんなにもそのように言うように強要していた。そう言う頑固さがこの若い母親にはあった。だから、百地三太夫の「於百」を引き継いでいるかもしれない。
 だから、筆者も「もも子」と呼ぶことにする。もも子はこの街とは違う瀬戸内沿岸の小さな漁村で生まれ、幼い頃、父親を亡くしたために高等小学校を卒業して芦屋の電電公社に勤めて一家の家計を支えた。同じ在郷の阿武という男が、何とか独立してこの街に酒と乾物の問屋を営み、もも子を妻に迎えたのであった。父もなく少女の細腕で弟を学校へ上げて一人前にし、弟はこの街の海軍工廠で働いていた。
 そして、夫の弟は戦闘機に乗り先日のK港の沖合の海空戦で華々しく散ったのであった。その事をとやかく涙ぐむほどの甘さや弱さは許されなかった。
 市街地にも焼夷弾が八万個も投下されたと言う。街は死者千八百人以上を数える灼熱地獄となった。
 もも子は赤子の太郎を抱いて焼夷弾の火の粉を浴びながら逃げまどったのである。負けてはならぬともも子は思った。女や子どもを犠牲にするようでは、男として勝ったとは言えぬと思った。あの馬鹿な男どもは何を考えているのかと思った。そんなに人を殺す火遊びが好きならば、まだ女の躰をまさぐる火遊びの方が可愛げがあると思った。男達のそういう偏執狂的な意地こそ、あらゆる悪の根元だと思った。男の意地を誇り高く維持しようとするならば、腹かき切ってしまえば良いと思った。しかし、あの国の赤鬼達は切腹の意味を理解すらしないだろうとため息ついた。でもおめおめと、平気で戦争に参加しておらぬ女や子ども達を犠牲にして、生き長らえることは、いつか、自分の唾を自分の顔に浴びせることになるだろうと思った。赤鬼達にも可愛い妻や子がいるだろうに、彼らはそのような目に合うやも知れぬ、そういう目に合った時の哀しみ、やり切れなさを思いやって見る想像力を持ち合わせていないのだろうかと、腹立たしさに空に向かって拳を振り上げたくなった。
 くそったれ男たちよ、恥じるがよいと思った。そして、そういう男達に戦わぬ女達の弱さに苛立った。
 今は私も銃後となって、あいつらに戦わなくてはならぬ。戦い終わってからじゃぁ、この国の男達と戦うのはと。もも子はふと昂ぶった感情のまま可笑しな事を考えた。>>続く