リトルボーイの涙(5)

 「リトルボーイの涙」の続き

 最早、この街が戦場のただ中にあるとは思えなかった。安奈の歌声に、焼け出された人々も思わず微笑んで幼子を羨んだ。安奈の胸の柔らかい心の音する世界は、この街の傷ついた世界よりは、確かな手応えのある誰も犯すことの出来ない豊壌の地であると思われた。
 後からもも子がやってきて、ため息ついた。
 「本当にこの子は安奈ちゃんに抱かれるとご機嫌なんだから、かなわんわ、太郎、うちが母ちゃんなんよー」と、もも子は太郎の鼻を指先でちょいとつついた。赤子は目を開けて、もも子を見やり、その可愛い手でもも子の陽に焼けた赤い頬をぶった。
 「ダメよ、太郎ちゃん、お母さんに悪戯しちゃあ、そんなことをすると、お姉ちゃんがもう太郎ちゃんを抱いてあげないから」
 太郎は観念したのか、大人しくなりもも子の手にゆだねられた。荷台の上に急ごしらえで作られたベッドの上に赤子を寝かせ、もも子はリヤカーの後ろを思い切り良く押した。
 安奈も先ほどの想いから開放されたように、てんぼうをお腹の上に持ち上げ、両手で左右のてんぼうを力一杯握り、掛け声もろともリヤカーを一挙に引っ張った。あまりの勢いで荷台の赤子が思わず飛び上がったかの様に見えた。しかし、赤子は泣かなかった。二人の若い女の荒々しい仕草をむしろ楽しんでいるかのように笑い、両の掌を結んだり開いたりした。*1
 やがて、ヒロシマ方向の吉浦の里に向かってリヤカーは動きだし、暗くて長い隧道にさしかかった。真夏日であった。朝であっても、陽の光は強かった。吉浦では午前中に用事を片づけるつもりであった。
 湿気に汗と埃が、気持ち悪かった。二人は首に掲げた店名入りの日本手ぬぐいで時々、首筋にたまった汗の玉をぬぐわざるを得なかった。その濃厚な汗の匂いが彼女に又、健治のことを思いおこさせた。