アイロニカルに語る果てに公共性があるのではないか?
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- 作者: 武田徹
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武田さんは、この三論文はいずれも「愛される」キャラを中心に構築される排他的なコミュニケーション共同体の呪縛への批評となっているとする。
思えば言論誌もまた特定のイデオロギーを核に閉じた執筆者・読者共同体を作りがちだった。対して『論座』は、休刊前最後の通常編集版になるだろう今号も含め、言論共同体の外からのテーマ、書き手の調達に意欲的だったが、共同体を乗り越えた先に公共的な言説はもはや存在しなかったのか。その休刊の意味を改めて考えてみたい。
月刊「現代」も休刊になりましたねぇ。
共同体≒ 公共性の問題は星野ジャパン≒ 野村ジャパンに代入すると僕的には腑に落ちるところがあります。
bk1にかって武田徹著『NHK問題』でかようなレビューを書いていました。「アイロニカルに語る果てに公共性があるのではないか?」
アイロニカルに語る星野監督は想像出来ないけれど、野村監督はまさにアイロニカルな人だと思う。
公共放送のNHKだから、うっかり商品名を言っちゃあいけないんだよ、だから即、公共性を体現しているというわけではない、資本主義自由経済体制の競争原理に忠実だからと言って民放が公共性を実現出来ないというわけでもない。何が公共性かと言うことはもの凄く悩ましい問題で常に検証が要請される。
共同体と公共性とはズレがあるのです。国家=官=共同体ではあるけれど、重なる部分が多くとも、即公共性ではないのは当然です。下り(ダウンロード)、上り(アップロード)の双方性の時代がもう目の前で地上波のデジタル化がくまなく行き渡れば民主主義政体は御安泰とはいかない。放送は文字通り、送りっ放しですが、放送と通信の融合はインタラクティブ(双方性)の技術進化で、ばっしりとした環境が整ったわけでしょう。だからと言って僕たちは民主義政体になくてはならないツールを手に入れて未来は明るいと手放しの見立ては出来ない。
NHK問題を通して、果たして共同体=公共性であるのか、そのズレについてアイロニカルに本書は語る。武田徹が首尾一貫して啓蒙活動している「メディア・リテラシー」の文脈に位置するのです。恐らく、僕たち一人一人が他者と関わって生きて、暮らしてゆく上で「公共性」は最後の拠り所でしょう。だからメディア論は「生きる」の問いにつながる。
イギリスのBBCがフォークランド紛争で「我が軍」と呼ばずに「英国軍」と呼び続け、サッチャーに批判攻撃されても方針を変更しなかった有名なエピソードは共同体=公共性かという根源的な問いを投げかけてくれる。
武田はローティの『偶然性・アイロニー・連帯』における「ずれてゆくリベラル・アイロニスト」は自分自身のローモデルだと明言する。《ジャーナリズムは苛まれた人たちを発見し、その声を報じようとする。しかし、そこには状況認識の間違いがあるかもしれない。その報道に応じて政策が決定されれば、n人の犠牲の下にm人を助ける結果になるかもしれない。そこでn人の犠牲を出さずに済む方法はないか検討するためにあらためて報道を続ける。それが反照的均衡を探る報道だ。そしてそれは最初のものの見方をずらしてゆくリベラル・アイロニーのあり方でもある。》
本書ではそのようなアイロニストとして冗談音楽、CMソングで一世を風靡した三木鶏郎が登場しますが、若い人たちには馴染みが薄いでしょうね、そう、爆笑漫画の太田光の元祖と言ってもいい。CIEの検閲で問題にされたコントを紹介しよう。この番組の担当者は丸山真男の兄である鐵雄です。
《A「標語を書くのに紙がないんでね、古いポスターの裏を使ったのはわかるがね、ちょっと驚いたよ」/B「ホホウ」/A「民主主義! と書いてある裏にだね」/B「何て書いてあった?」/A「八紘一宇って書いてあったよ」》
ーhttp://www.bk1.jp/review/0000443363よりー
>イギリスのBBCがフォークランド紛争で「我が軍」と呼ばずに「英国軍」と呼び続け、サッチャーに批判攻撃されても方針を変更しなかった有名なエピソードは共同体=公共性かという根源的な問いを投げかけてくれる。
星野ジャパンには「我が軍」という臭みがあったと思う。ちょっとでもアイロニカルな視点があってもよかったんじゃあないかと思う。