宇野常寛/しゃれこうべ

ラスト・フレンズ

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グレート生活アドベンチャー

グレート生活アドベンチャー

 やっと、宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』を読み終わりました。彼の書いていることは、あまりにも僕にとってはマットウ過ぎるものでしたが、だけど、他の人々にとって物凄く痛いものかもしれない。
 だって、家族や恋愛を相対化するわけなんだから。まあ、故緒形拳が「書」に書き藤原新也の言う「しゃれこうべ」は相対化できないけれど、家族至上主義はともかく恋愛至上主義の相対化ぐらいはやって欲しいねぇ、父権にしろ母権にしろ、「所有」から自由になれない固執であって、無限ループの暴力を生む。

 家族(与えられるもの)から疑似家族(自分で選択するもの)へ、ひとつの物語=共同性への依存から、複数の物語に接続可能な開かれたコミュニケーションへ、終わりなき(ゆえに絶望的な)日常から、終わりを見つめた(ゆえに可能性にあふれた)日常へーー現代を生きる私たちにとって超越性とは世界や時代から与えられるべきものではない。個人が日常の中から、自分の力で掴み取るべきものなのだ。そしておそらく、この端的な事実は時代が移ろっても変わることがないだろう。ー宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』p338よりー

 本書の宇野が冒頭で引いた「ニーバーの祈り」の変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えまえ、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えるもとのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を、わららに与えたまえ。
 変えることのできないものは、「しゃれこうべ」なのです。

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力