ガンの究極的な治療法

 言葉はもはや通じないのである。ES細胞はしかたなく、読めない空気の中で自分探しを続けることしかすることがないだろう。福岡伸一
 福岡伸一の『世界は分けても分からない』(講談社PR誌「本」10月号)の第五回「ES細胞とガン細胞」を興奮して読みました。福岡さんの文章はなんてこんなに面白いんだろうと恐らく現役のエッセイスト、コラムニストとしてもピカイチだと思いました。この擬人的な表現は思わず、KYなガンちゃん!、君も大変だねぇ、悩みが多いと思うけれど、早く相談できる友達と見つけてねぇ、オレもガンちゃんのために一生懸命友達を見つけてあげるから、頼むから暫く辛抱して、大きくならないでねぇ。君が一日大人しくしてくれれば、オレは一日延命できるからさぁ。m(__)m

 実は、私たちはすでのそのような細胞をずっと昔から知っている。ガン細胞である。ガン細胞は一度は何者かになったことのある細胞だ。肝臓の細胞、膵臓の細胞、肺の細胞。しかしあるとき、自分の分を見失い、自分探しを再開する。自分を探しつつ、無限の増殖だけはやめない細胞。それがガン細胞だ。
 細胞は分化を果たすと一般に分裂をやめるか、その分裂速度を緩める。つまり自分が何者であるかを知り、落ち着くわけである。おそらく、分化が完了するということ自体、ジグソーパズルのピースが自らを定位したということと同じだからである。ちょうどジグソーパズルのあるピースが周囲八つのピースとの間に、過不足のない、排他的な、そして相補的な関係性を完成させたということである。このときまわりを囲まれたことが、分裂の停止命令として細胞に働く。ここでも細胞はまわりの空気を読んでいるのだ。(p22)

 僕の細胞は戦後民主主義というジグソーパズルを与えられたが、未完成のまま、知らぬまま迷走を始め、60兆個の細胞の幾らかがKYになり、引きこもって自己肥大化して行く。そんな擬人化の物語を語ることができるかもしれない。たった一つのKY細胞であっても、その感染力は油断がならない。ひょっとして「再帰性」って言うヤツはそんな根拠地を持たないガン細胞かもしれない。

  ガン細胞は、あるとき急に、周囲の空気が読めなくなった細胞、停止命令が聞こえなくなった細胞であると定義できる。コンタクト・インヒビションが作動しなくなった細胞であるガン細胞は、周囲のジグソーピースの上に重なるように、あるいはそれを乗り越えるように多層に積み重なりながら分裂を再開しはじめ、無限の増殖を果たす。やがてそれはジグソーパズル全体の生命を損なうにいたる。
 周囲の空気が読めなくなった細胞。ES細胞は、クリティカルなタイミングで初期胚の中に入ったとき、隣人となった細胞との間に会話を成立させることができ、己の分を知りうる。しかし先に記したように、ES細胞を、初期胚以外の段階にある生命体の中に入れたとき何が生じるか。分化の程度が進んだ後期の胚や胎児、あるいは成体の中に入ったES細胞は、まわりの空気を読むことができず、増え続けることしかできない。言葉が通じない世界では、ES細胞はガン細胞になるしかないのだ。実際、成体内に実験的に移植したES細胞はしばしば腫瘍化することがわかっている。
 ガンの究極的な治療法があるとすれば、それはまわりの空気が読めなくなったガン細胞に、再び適切な空気を読ませ、自分の分を思い出させることにつきる。

 「自分の分を知る」ってこれほど残酷なものはないとも言えるわけで、60兆個の細胞がそれぞれの分を知り、空気を読み、平均余命が130歳があたりまえの世界になったら、それも大変ではないか。自分の分を知らない、身の程知らない、KYな細胞がガン化してくれるから、死を核とした「終わりある日常」の倫理が立ち上がるとも言えるわけ。どこにも死の影のない「終わりなき日常」がノンベンダラリと続いたら、ちょいと怖いかもしれない。コミュニティ内にKYな人がいることで、フレームを食い破り新たな命、ステージの誕生ということにもなるかもしれないし、ガン細胞と共生することが大切なことかもしれない。
 前著の『生物と無生物のあいだ』はベストセラーになったが、この連載も完結したら新書か、単行本になるのでしょうねぇ。間違いなくベストセラーになりますよ。こんな風に自信を持って予想できる本って本当に少なくなりましたねぇ。株の投資よりは当たりますよ。
 ♪http://www.journalism.jp/podcasts/2008/09/20.html