大丈夫であるように


痛々しくも「いのち」をすり減らす歌い手、cocco♪のドキュメンタリー「大丈夫であるように」を今年最後の映画鑑賞として梅田ガーデンシネマで見ました。正午上映でしたが、ほぼ満員。
是枝裕和監督なので、是枝らしい色でcoccoが染め上げられているのかと思いきや、ほとんど監督は陰に隠れて見えない。coccoが生身を晒して、沖縄を語り、ジジィ(祖父)を想い、友を、ババを、青森六ヶ所村を、ただ、ただ、監督は、coccoに寄り添い、coccoに感染した映像を送り届けてくれる。そこに、覚めた監督の批評は抑制されて、とにかく、coccoを描きたかったんだと、その強い思いが伝わりました。
coccoのファンにはたまらない映画だと思うけれど、別段、ファンではない僕にもcoccoの生き様の迫力にちょっぴり涙腺がゆるくなる刻がありました。今年の色んなやりきれない重い荷の少なからずを洗い流すことが出来ました。
でも、エンドロールのキャプションで拒食症で入院ってあったけれど、今はどうなんだろう。ゆっくり、ゆっくりでいいじゃあ〜ん、やれることを一つ、一つやってゆくしかない。
かって、小説家の保坂和志が珍しく政治について書いたことがあった。(毎日新聞2007/1/6「政治に思う」)

言葉を変えるのは時間が掛かるものだけど、政治は短期間で答えを出すように人にし向ける。政治にかかわる人は皆、自分が正しいという立場でしかものを言わない。間違っているかもしれないというためらいが、政治の場では容認されない。例えば北朝鮮を悪者にしている限り、自分の正しさをみじんも疑わないで済むわけです。ファシズムって正しいと思って動き出す時に起きてくる。これ、僕の定義なんですけど。迷ってふらふらして戸惑ってる限りは起こらない。小説家のやり方は、それでしょ。

多分、小説家であれ、ミュージシャンであれ、アーティストであれ、同じだと思う。だからと言って政治から逃げているわけではない。作品の中に言い訳とかアリバイ証明みたいに政治が語られるのではなく、それを支える「見えないもの」を作品化することによって人々を揺り動かすものでしょう。
coccoには表層で闘うのではなくて、地中深くマグマで闘って欲しいと思いました。
大丈夫な人は男であれ、女であれ、そんな人だと思う。