場所の力「中之島/釜ヶ崎」

街場の大阪論

街場の大阪論

京阪電車の主要駅、大阪の主要書店、図書館、喫茶店などにおいてある中之島という「場所の力」をコンセプトにしたフリーペーパー月刊『島民』の最新号をもらって来ました。とても評判のいいマガジンで、もうバックナンバーは手に入りませんね。
僕の持っている号は先月号と今月号だけです。先月、始めてこのフリーペーパーの存在を知ったのです。遅い!ジュンク堂大阪本店でも「島民」フェァが行われましたね。
この雑誌の編集長は僕もbk1で書評投稿したことのある『「街的」ということ お好み焼き屋は街の学校だ 』という本の江弘毅さんです。

【イナカでもトーキョーでもない、「街的」な街は情報化され得ない生き物なのです。】(2006/09/03 )
 人間が言語を生んだのではなくて、言語が人間を生んだのでしょうか、人間とは関係性であって、言語は書き言葉、話言葉にとどまらず、メタファーとしての個々具体的な風景も言語であろう。
 本書で作者の言う「街的」は分節され得ない、その中で生きてみせる、“そのことで立ち上がる”、カタログ化、情報誌的記号に発信出来得ないものなのだろう。
 あとがきで、内田樹は「街的」とは江さん自身の「生活原理」であると言う。始めに言葉ありき、そう「街的」があるのです。そのフレーム、規矩を生きる。でも、それは抽象的なものではない、日々の実践を通じて具体的に立ち上がるものである。内田さんは九鬼周造の『「いき」の構造』の「いき」にもっとも近い概念として「街的」をあげているが、概念化され得ないものとして「街的」を措定している。
 と、こんな風に書くと、えらい難しい哲学書かいなぁ…と思われるかもしれない、確かに巻末にある内田樹の『「街的」の構造』から読み始めるとそう感ずるかもしれない。ジャック・ラカンを持ち出しているんですもの、でも、それは内田先生特有のアクロバッティックな物言いなので、ゆめゆめ、あとがきから読む知的冒険はしない方が良いと思います。まっとうに頭から素直に読むことをお薦めします。
 何かバターナリズム的な言い方ですが、良い店をみつけるには、まず“先輩”を見つけることだと作者は言う。真似ることでしか街を知ることが出来ない。だから、ちょいと僕もそのような言い方を真似てみたのです。
 情報誌的カテゴリーから逸脱した記号で言い表せない“何か”は授業料を払って街を学ぶしかない。街でも店舗でも簡単に消費され得るものは、スクラップ&ビルドの繰り返し、「街の記憶」は抹消される。そうでなくて常に消費され得ない残余が、それは多分、気配であろうが、その街そのもの、その街角、その商店街のある店が周りの風景とともに立ち上がってくる匂い、そのリアルな質感が「街的」ということではないか、
 本書でアメリカ村が誕生した経緯は日限萬理子さんの一つの小さなカフェ『ループ』の波紋から街が徐々に形をなしていった生き物めいたもので行政が指導したわけではない。
 丁度、柴崎友香の『その街の今は』(新潮社)がもうじき発売されますが、僕は雑誌『新潮』で読んでおり、ミナミ周辺の街の記憶が、今とリンクして見事に描かれいるのです。本書を読んで江さんの「街的」はもう一つわかりにくかったですが、この小説のことを思い出したら、具体的に「街的」がイメージされましたね、
 江さんは雑誌『ミーツ』の前編集長ですが、4,5年前、僕が東京から大阪に引っ越ししてこちらの本屋さんを覗いて驚いたのは、『ミーツ』という雑誌でした。どこの本屋さんでも平積み、面陳されており、新刊だけでなくバックもフェア的陳列がなされている。 何んだ、この雑誌は、たかが情報誌ではないか、つまんねぇとめくったら、何か微妙に違う、その街の記憶が立ち上がる気配があるのです。江さんは『岸和田だんじりだんじり若頭日記』を書いている人で今年編集長を辞めて、退社、140Bという編集集団を立ち上げたばかりなのですが、本格的に「街的」に拘って「街的」に生きるのでしょうか。

古い拙レビューですが、『月刊島民』を見て編集長が江弘毅さんだったので、やっぱしとナットクしました。
今週の金曜日(3/13、6:30pmから約90分)にジュンク堂大阪本店で江さん達が講師。フリーライター永江朗が司会でトークイベント(電話06-4799-1090)『街場の大阪論』が開催されます。先ほど、電話で申し込みました。入場料500円ですが、先着50名なのに、まだ半数しか埋まっていないみたい。ご興味のある方は申し込んだら。
ところで、同じ大阪でありながら、中之島と全く非対照な「場の力」を持っているのは「釜ヶ崎」かもしれない。
こちらは参加できませんが、マイミクさんからメッセージをもらったので転載します。

シンポジウム「場所の力——歩きながら考える」
2007年7月、他者の記憶を聴き取り、朗読する舞台「こころのたねとして」が、フェスティバルゲートにおいて開催された。
この試みは、2008年4月に文庫本『こころのたねとして——記憶と社会をつなぐアートプロジェクト』として書籍化され、いまもなお継続されている。これらの取り組みのなかで、次第に明らかになったことがある。他者のこころのなかにある記憶を引き出し表現するという営みは、「場所の力」を呼び覚ます試みにほかならない。そして、呼び覚まされた「場所の力」は、他者と共に生きるための手がかりとなることを、わたしたちは確信している。とはいえ、「場所の力」とは一体なにか、と問われたとき、そこに単一の答えがあるわけではない。その言葉の意味は、さまざまな定義に開かれた状況にあってこそ、多様な実践のなかで豊潤なものになっていくだろう。文庫本『こころのたねとして』においては、「場所の力」と題する章を設け、都市研究やプランニング、メディア研究といった、分野の異なる研究者と協働をおこない「場所」をめぐる考察を展開した。本シンポジウムは、さらに多様な立場の研究者/実践者との対話のなかで、場所の力をめぐる議論を社会化する試みである。
でもね。思考や実践というものは、目的地のない歩行のように、あちらこちら紆余曲折するものなのですよ。このシンポジウムもまた、そうでありたいと思います。いっしょに散歩に出かけましょう。
◇3月7日(土) 13:00〜18:00  入場無料 /会場:大阪市立大学都市研究プラザ高原記念館 /大阪市住吉区杉本3-3-13大阪市住吉区杉本3-3-138  tel.06-6605-2071 /アクセス:JR阪和線杉本町駅から徒歩5分  地下鉄御堂筋 線我孫子駅から徒歩20分
◇構成
1部  ドラマリーディングライブ「こころのたねとして」(13:00〜14:00)
出演者・SHINGO☆西成・岩橋由梨・上田假奈代
2部  シンポジウム「場所の力をめぐって」(14:30〜18:00)
総合司会:原口剛
「対話が生み出す場所の力」パネラー:永橋為介×上田假奈代
「場所をつくる/メディアをつくる」パネラー:櫻田和也×成田圭
「都市の隙間——<貧乏くささ>の居場所をめぐって」パネラー:五十嵐泰正×遠藤哲夫
展示「あしたの地図よ」/釜ヶ崎「こどもの里」ワークショップにおけるこどもたちの作品展示

参照:五十嵐泰正「「ババ抜きゲーム」は続くのか?――国内第三世界化と外国人労働者」浅草橋西口やきとんの「貧乏くささの居場所」で泥酔記憶喪失。: ザ大衆食つまみぐいそういう「大人の男」の時代なのか。: ザ大衆食つまみぐい
ところで、エルおおさかで行われるイベントの展示で「働く人びと」の写真を展示する予定ですが、家族のアルバムを観ても、冠婚葬祭、旅行、卒業、記念写真や、遊びの写真はあるけれど、現場の「額に汗して働いている写真」って本当にないですね。昨日、天満橋の図書館で会社の社史なんかをめくっても意外と労働現場の迫力ある写真が少ない。巷で話題になってる小林多喜二の『蟹工船』の迫力ある作業現場は映画のシーンでしょう。あっても、展示する許可をもらうのは難しい。
それで、主催者側で「働く人びと」の写真の提供を呼びかけています。こちらも紹介します。写真のお持ちの方は提供してあげて下さい。
『月刊島民』で「働く人びとの現場写真」を連載掲載したら面白いと思うよ。
僕は高校二年の頃、大阪に引っ越ししたのですが、大阪では「キタとミナミ」では全然違った文化圏っていう感じがしましたね。60年代後半、70年、80年、98年と横浜、東京に住んで99年から大阪に帰ったのですが、やはりキタとミナミは、別の場所の力があるとつくづく感じます。
その意味で大阪って変わっていないとつくづく思いました。
橋下知事が府庁を南港に移転したいということに関しては僕もわかります。移転することによって、今までの「キタとミナミ」の文化圏が揺らぎ、面白いことになるだろうと言う予感が僕にはあります。