音楽として聴く

新潮 2008年 12月号 [雑誌]

新潮 2008年 12月号 [雑誌]

僕のブログのアクセス数は右下がりで大幅減が続いているのですが、それでもアクセス解析をすると、毎日、茂木クオリア日記「斎藤環×茂木健一郎 往復書簡」(2007/06/04)のサイトから訪問がある。
確かに往復書簡が頓挫したことは残念だけど、僕の中でもう終わったことなのです。
でも、トラックバックしているから、いまだに訪問して下さるわけです。
斎藤環×茂木健一郎 往復書簡」のトピックは旬な出来事だと思っている人が少なからずいらっしゃるんだと驚きます。
だったら、ご要望に応えて関連テキストとして『新潮 2008・12』に掲載されている、『小林秀雄の「響き」』から特別対談「批評の肉体性を聴く」を紹介しようと思い立ちました。
対談者は小林秀雄の孫の白洲信哉茂木健一郎で、志ん生を介して白洲は小林秀雄茂木健一郎は似ていると言う。僕が茂木さんのトークを聴いたのは随分昔で、ブックファースト梅田店が開店(2004年)で記念トークをしたわけです。あの頃は知る人ぞ知るで、芸人顔負けの露出度ではありませんでした。でも、そのしゃべりがオモロク、志ん生のモノマネまでやってくれた。それでもしゃべりたりないのか、サイン会でもサインするだけではなく、一人一人と話し込んでしまうわけです。ものすごく好感を持ちましたよ。対面では茂木さんの魅力には抗しがたいw。
ちょうど、その時、僕のパソコンがおシャカになってもうブログなんかやめてしまえというノリだったのですが、確かそのことを茂木さんに言ったような気がする。トークの内容もネット言論のつまらなさに重心を置いた話もあったのです。でも、茂木さんは対面では続けなさいというニュアンスだったので、新たにパソコンを購入したわけです。そのパソコンもいまだに使っている。酷使しているのにもうじき6年目。
ネットを始めたのは多分、2002年。News-Handlerで最初にブログを始めたわけです。
僕のことはもういい。茂木さんのことでした。「新潮」の対談で茂木さんは小林秀雄の講演はビートルズのアルバムと同じような感覚だとおっしゃる。
茂木健一郎志ん生小林秀雄ビートルズとなってゆく変容にはサプライズでした。
「往復書簡」ではなく、「対談」にとトークライブに着地しようとした気持ちがやっとわかりました。ビートルズなんだ。

茂木 録音技術ができてからせいぜい二百年も経っていないけど、やっぱり僕は夏目漱石とかソクラテスの肉声が聴けたらどんなによかったろうと思う。そういう意味でいうと、小林さんの講演がこれだけ聴ける形で残っているというのは、僕にとっては奇跡的なことです。百年後とか二百年後にも語り継がれるような文人の肉声が記録された、最初の事例かもしれないとさえ思います。
小林さんの講演のまず素晴しいところは、やっぱ音楽として非常に魅力的なんです。やっぱり、人間の発話というのは音楽だってことなんだな。脳の言語野というのが左半球にあって、一方で、感情とかそういうのは右半球で処理するんですけども、発話はその両方に響いてくるんですよ。そのことを、小林秀雄さんの講演を聴いて実感しました。講演の内容が面白いのは他にもあります。たとえば三島由紀夫全共闘の学生と討論した『学生との対話』で、彼が天皇にこだわる秘密が垣間見えるところがありますね。そういうのは僕も好きなんですが、音楽としてはやっぱり小林さんの講演が一番ですね。唯一無二と言っていいぐらい。
白洲 音だからね、とにかく人類の最初は。言葉じゃない。人間もやはり動物なんです。
茂木 女性はよく言いますよね、男は見た目じゃなくて声だって。
白洲 ほんと? そんなことで判断できる女性、いまいるの?
茂木 判断が正しいかは別にして(笑)、そういう女性は多い。それはともかく、小林秀雄さんの講演が一度聴いているのに何回も聴けるのはなぜかというと、要するに意味を通して聞いているのだけじゃないからですよ。音楽として聴いている。だって、ビートルズのアルバムって何回でも聴けるじゃないですか。(p197~8)

僕はクオリア日記にアップされていた音源をいまだに愛聴しています。一番好きな名盤は「高橋悠治との対談」だと思います。youtubeでもアップされていましたね。斎藤環もこの高橋悠治との対談を評価していましたね。僕としては往復書簡がダメなら「トークライブ」でもいいじゃあないかと思うけれど、言い出しっぺの出版社に敬意を表して大人の着地点を見いだして欲しいと思います。
こんなに僕の拙ブログにもお二人の「往復書簡」もしくは「トークライブ」に関心を持っている方が日々訪問してくれているのだから…。
今、こちらで代替医療について♪代替医療をどう考えるのか - キリンが逆立ちしたピアス♪侃々諤々やりとりをやっていますが、クオリアの心脳問題と代替医療の危うさと僕の中で通底しているところがあります。

 しかし、ES細胞の分化プロセスがまったくのブラック・ボックスであることには変わりがない。私は、このような生命操作技術は、あくまで生命のメカニズムを探るための基礎研究の手段に限られるべきだと考えており、商業的に利用されたり、性急な医療目的に使用されたりすることには反対である。遺伝子操作や生命操作を用いた生命科学研究は、ある種の不可能性を証明することに行き着くのではないか、と思えるからだ。
 それは生命というプロセスがあくまでも時間の関数であり、それを逆戻りさせることは不可能だ、という意味である。(福岡伸一動的平衡』p165)

クオリアも「ある種の不可能性を証明することに行き着く」と私的には思います。
でも、それでもいいんだと思う。冒険者は永遠に冒険者であり、錬金術師達の魔法?があったからこそ、西欧近代科学が誕生した一面もある。代替医療の問題も一刀両断にすべきものではない。