(1)【出版社・取次・書店という近代出版流通システム】

kuriyamakouji2009-09-26

 出版社・取次・書店という近代出版流通システムは明治二十年代から始まります。明治二十年に博文館が創業して、そこで『日本大家論集』というアンソロジーを出します。この時代にあったのは、大体新聞取次を専門とする取次会社で、書籍を扱っているのは二、三社程しかありませんでした。ところがそこに博文館がデビューして、その『日本大家論集』がベストセラーになりました。それで急激に博文館が、取次抜きで東京のみならず地方都市の書店と通信販売で直取引をやり、取引先を全国に伸ばしてゆくわけです。その後の明治二十四年、博文館が親戚の者に東京堂を設立させます。東京堂は初めは博文館の書籍を取り扱わないで他の出版社の取次ということで発足するわけですが、二十七年になって今度は博文館が自社と直取引している書店を東京堂と提携させて、博文館の書籍を扱うようにさせるわけです。ですから博文館が蓄積しました全国の書店ルートがそのまま東京堂に引き継がれるということになります。
 そして明治二十七年に『日清戦争実記』という今で言うムックグラフ誌を五十一点程刊行します。その時既に日本全国九百店くらいの書店インフラが作られていました。そのことによってこの時代に一千万部という信じられない部数を売ることができたのです。この時代にはもちろん、定価販売ではありませんし、買切りで、書店が値引きして売り切っていました。ところが明治末期になって初めて雑誌の委託・返品制というのが導入されます。これは実業之日本社が雑誌七種くらいを委託制にしました。これが今の返品の始まりということになります。それに講談社や新潮社とかが追随して雑誌の返品というのが起こってくるわけです。
 どうして返品制が導入されたかを考えますと、東京堂という会社が博文館と非常に仲が悪かったということからきているのではないかと推測できるわけです、博文館が東京堂を下に見ていたということがあって、大野孫平という戦前の取次の大物が東京堂に入社して、博文館以外の新興の出版社と非常に親しくして金銭的援助をしたりするようになるんです。これは邪推なのかもしれませんが大野孫平という実力者は博文館を見返すために新興出版社と組んで委託販売を導入して売上げを伸ばそうということなんかを話し合ったような気がするわけです。そうした伏線があって雑誌の返品が起きてくる。
 それから大正に入って、定価販売制、これは取次のカルテルといっていいと思いますが、そういうものが始まってきます。そうしますと低価格の週刊誌(「週刊朝日」や「サンデー毎日」等)が創刊されてゆくという雑誌の流れがあります。それと平行して、現在まで続いている講談社や文春をはじめととする雑誌を主体とする大手出版社も次々と創業されてゆきます。それから、昭和の初期に円本時代というのがあって、円本に類する全集、叢書類を何と三百何十種類も作るわけです。今でいったらバブル出版以外の何物でもなくて、ほとんど成功しなかったといわれていますし、メチャクチャな返品を被ったといわれています。
 多くの出版社の社史を読んでもわからないのですが、恐らくこの時に最初の書籍の返品制というものが大筋を占めるようになったと推測されるわけです。それからこの返品を吸収する装置として、世界に冠たるといわれている日本の古書業界が立ち上がってきたと思われるのです。その古書業界の立ち上がりは、委託販売が昭和初期から始まり、出版界が委託制ということで過剰生産をする宿命を負ってしまった、その時代からです。確か東京古書組合が創業されますのが大正半ばですね、八木書店が出来るのは円本が終わった昭和初期頃なんです。ですから、この時代から古書業界と新刊業界が共存し、表裏一体となって歩んできたという歴史があると思います。ー図書新聞2496号よりー

非常にわかりやすい啓蒙的な語り口で見晴らし良く語ってくれます。続きは【返品の始まりから委託・再販制へ】ですが、後日、又引用します。