ある書店人

kuriyamakouji2009-10-02

柴野京子の『書棚と平台』を再読しています。
それと関連して大阪の「エル・ライブラリー」に寄贈したポプラ社が編集・制作した非売品『風 橋立孝一郎の奇跡』(発行者橋立久枝)を借り出してぱらぱらめくっています。
僕のいた本屋の取次はトーハンで、倒産騒ぎがあったおり、関内・横浜店にいて偶々店長が原宿の本部に行っていたので、店舗の管理を僕が判断せざるを得なくなり、ショッピングセンターの営業時間中にトーハンのトラック便が空で関内駅前にずらりと集合したのです。入口からトーハンの人たちが多人数で乗り込んで来ました。
1971年二月の出来事でした。(風p162)
店内にはお客様が大勢いたし、顔なじみのトーハンの営業の人からこれから棚、平台にある委託で預けている本達を引き揚げるとのすごくまっとうな通告を受けたのですが、僕としてはどう判断していいのやら困ってしまった。
一刻の猶予もないのです。直ぐに本部に電話したら保全管理人になったばかりの弁護士が出て、裁判所から財産保全の命令が出たばかりなのでその旨、トーハンの人に申し渡すように言われて、別段、通達書のようなものは手元になかったけれど、間違いない、命令が出たので勝手に持って行くと例え所有権がトーハンにあっても占有権が裁判所にあることにどうやらなったらしいので、ヤバイんじゃぁないのと、僕なりの法律的知識を総動員して対応をしたわけです。単なる民事ではなく、刑事問題になるリスクがあるよと。
トーハンの人たちも紳士的で穏便にナットクしてくれて、空荷でトラックを連ねて帰ってくれました。ほっとしました。
お客様を追い出すことは出来ないですからねぇ。でも債権者としていち早く情報を得たらとにかく商品を引き揚げることは営業中であれ、一気にハードボイルドにやるわけですよ。
参照:http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20050805/p1
『風 橋立孝一郎の奇跡』に昭和63年11月2日付けで故橋立孝一郎に宛てた当時のトーハンの社長遠藤健一の弔辞が掲載されている。

(略)/あなたは大正九年、東京渋谷にお生まれになり、東京外語明治大学を卒業され、戦時中は主計将校として秩父に派遣されましたがそこで終戦を迎えました。
 そして戦後の未曾有の混乱の中で、あなたは秩父を新たなスタートの地と定め、昭和二十一年七月、読者のために欲しい本を提供する組織として「秩父読書クラブ」を創設されたのであります。当時、本の配給ルートが完全に機能していない中で、この組織は地域の読者から大歓迎を受けたことは申すまでもありません。
 またあなたは「地方文化の魁(さきがけ)ならん」との志を掲げ、地域の文化活動にも力を注ぐ一方、時の文部大臣田中耕太郎先生、一高の校長麻生磯次先生など一流の文化人を招いて「秩父文化講座」を開講するなど、商売を超越した地域社会発展のため大きな貢献をなされ「読書クラブ」の名声は確実に読者に広まっていきました、
 あなたは常に社会の動向に注目し、卓越した力量とご手腕によって書店経営をすすめるかたわら、昭和二十五年、生まれ故郷である渋谷区原宿に五坪のおもちゃの店を買いとり「キディランド」として玩具販売にも乗り出されたのであります。
 一方、秩父でも四大商店の一つの「亀矢」を昭和三十五年に入手するなど、キディランドのチェーン展開の構想は実現に向かってすんんでおりましたが、その構想は多くの理解を得られるまま志半ばにして経営から身を引かざるを得なかったことは、かえすがえすも残念でなりません。
 しかしあなたの、めざすものを極めるお気持ちにおとろえはなく、そのお姿は魅力的でありました。自らを厳しく律する反面、他人には寛大であり、常に和を重んずる信条は私共の等しく敬服するところでありました。
 今出版業界は変革の時代を迎え、大変きびしい状況下にございますが、あなたのようなすばらしい先見性をもち経験豊かな書店人を失いましたことは誠に痛恨の極みであります。しかしあなたのご遺志は、社会の文化発展のために絶大なご貢献をされることを固く信じております。(風p142)

音楽と本とエンドレスに社員たちと論争を楽しみにする橋立孝一郎は持ち家にも、ゴルフにも、興味がなく清廉の人でした。
経営者の座を降りても、橋立の薫陶を受くべくかっての社員たち現社員たちがプライベートに集い、流通業界に関する勉強会を毎年秩父で開いたのです。まあ、僕は参加していないので、詳細は知らないが、一私人になっても橋立のカリスマ性にはビックリします。
ポプラ社の田中治男は本書の『その後の読書クラブと橋立孝一郎』(『書店人国記(二)埼玉県 昭和五十五年七月発行田中治男・著』より)によると、この秩父の読書クラブは書店をいうより、会員制の名著蒐集会とでも言った方がぴったりする変わった店だったらしい。

客が欲しいという本を東京の書店から買ってくる、勿論販売は定価である。ただし会員制だから客は会費を払う。それが読書クラブの維持費になるというわけ。/この山峡の町に殆ど本のなかった時代、これは確かにすぐれたアイディアであった。/本の流通ルートを知らない橋立たちは読者のために、クラブ組織で本を入手する方法を案出したが、本の配給ルートが完全に機能しない時代、このやり方が一番確実に欲しい本を手に入れる方法であった。/だから八坪の満たない秩父町本町の「読書クラブ」にはムヤミと客が集まり、気の小さい同業者の眉をひそめさせた。/「世界」、「リーダースダイジェスト」、「人間」、さては世評を呼んだ「善の研究」、「哲学ノート」、「三太郎の日記」、なんでもござれ、仕入先が東京の大書店だから、ベスト商品が揃うのはあたりませだった。(風p32)

僕が横浜の店に居て橋立の臨店診断を受けた時、平台にずらりと、吉本隆明の個人全集(剄草書房)を巻数ごと全点平積みしたのに、三木清、西田幾太郎には詳しくても戦後の思想家にはあまり詳しくなく、吉本は何物だという認識はなかったにもかかわらず、かような思いきった陳列を褒めてくれました。でも、全点とは、これではストリップ陳列になる、少し工夫したらと言ったユーモアあるアドバイスでした。
まさに「本棚」と「平台」のバランスを心がけている人だったかも知れない。
週一の単位で企画棚を設け、雑誌の特集のノリで本棚、平台を演出していましたね。
まさに、僕にとって「本棚・平台」がメディアで、近くに新聞社の支局、放送局の支局もある関係上を時々新聞記事のネタに取材も受けました。
例えば「公害を斬る!」とか言った時事棚を作るわけです。このような作業が一番楽しかった。
まあ、牧歌的な時代であって人員的な余裕もあったのかもしれない。
後年、トーハンではなく、ハケンでもう一つの大取次で年四回、コミックセット作りを定期的に出荷する作業をやったことがありますが、全国取引2500書店にセレクトした取次がリードした「コミックメディア作戦」だったかもしれない。この時期、コミックセンターも出来ましたね。
そう、ニッパンです。柴野本にも書いているように、トーハンとニッパンは日配から戦後分かれたと言っても企業風土が違いますね。
僕は橋立と多少の接点はあったけれど、80年代、リブロ池袋店の店長今泉正光そして、同じリブロ池袋店の店長になって現在ジュンク堂池袋店の副店長の田口久美子は西武へトラバーユしたが、キャリアスタートはキディランドであった。僕の記憶に間違いなければ、上の倒産騒ぎがあったのが、1971年2月で、新入社員として今泉、田口、後年、いわば新中古書店の魁とも言うべき「自由フォーラム・グループ」をを立ち上げた代表の丸山猛も彼らと同期で、キディランド→西武へと同じ道行きを取ったのです。だから、橋立とは接点はなかった。彼らが4月に入社したときは更生管理人たる弁護士の小屋敏一が代表取締役として経営に携わっていた。多分、面接で橋立が採用した面々だったと思う。
後年、書店業界で彼らが頑張っている報を聴いてどんな感慨を持っただろうかと思う。
細い糸ですが、現在の出版流通の最先端につながっている不思議を感じます。
このあたりについても、これから書いてみようと思う。
>続く