小田光雄の「出版・読書メモランダム」にシンクロして

kuriyamakouji2009-10-12

須賀敦子―霧のむこうに (KAWADE夢ムック)

須賀敦子―霧のむこうに (KAWADE夢ムック)

小田さんが、出版・読書メモランダムで、丸山猛と須賀敦子について書いている。
僕についてちょいと触れられているので正確を記して付記しておきます。
キディランドが会社更生法の適用があったから直ぐに退社したわけではなく、1971年、社員総会が開かれ、僕たちで高田馬場のアパートを借りて、ひも付きでない自前で上部団体に属しない組合も立ち上げ、原宿の表参道もデモ行進したりもして、結構、ハイテンションなノリでした。
大阪梅田の阪急地下街に出店したキディランド(同時に出店したのは紀伊国屋梅田店です)は売り上げも絶好調で、日銭も入ることで、資金の回転もよくなり、だって、更生法の適用を受けているから一種のモラトリアムで、玩具問屋、トーハンを初めとした債権者が債権の減額、保留をしてくれているわけです。小売業の再生は結局、現場の人間のやる気で、むしろ、会社更生前よりは給料もあがり、係長以上は社員持ち株になり、様々な面で働く環境は良くなったのです。だから、数年後に僕が退社することになった時も、株の売買金、退職金と結構なお金を頂戴した。
そのことに関しては感謝しています。
今泉、田口、丸山は多分、僕が退社して数年後だから、むしろ、キディランドの業績が伸び、会社更生法の適用が解除される秒読みの段階の頃だったと思う。だけど、好調なのはオモチャの方でキディランドのブランド力はアップしたが、本屋の出店は止まったわけで、僕の居た横浜・関内店も縮小された。そういう状況の中で退社したわけです。書籍部門の店長が玩具部門に転属という流れがあったわけです。僕はむしろ、本よりホビーが好きなところがあったからそんなに違和感がなかったけれど、書籍部門の店長からキディランドの雑貨・ホビー部門、それから西武パルコ系列にトラーバーユした今泉たちとほぼ同期のM氏もいました。
僕にとって1998年は重要な年でした。前立腺癌元年で、リンパ節に既に転移しており、ステージはD-1、半ばもう覚悟をしていたところがありました。そういう状況なので、恐らく20年近く会っていない丸山猛にコンタクトをとりたくなったのでしょう。彼は見舞いに来てくれました。その日、初めて「須賀敦子」の名前を知ったのでした。これから、須賀さんのお見舞いに行く。僕はその日、体調が良くて外出しようとしていたのです。彼は安心したのか、須賀さんのことについて熱く語っていました。「自由フォーラム」の面々が病室につんで色々と世話をやいているようなことなどを聴きました。
僕はさっそく須賀敦子の本を読み始めハマッタのですが、退院して通院で今度は放射線治療の外来が始まり、3月末に放射線も終わって一段落したら、須賀敦子の訃報のニュースに接したわけです。とうとう、一度も須賀さんにお目にかかることが出来なかったです。
追記:id:eireneさん経由で知ったのですが、来週のETV特集は「須賀敦子」なんですね。今週は永山則夫だったんだ。見逃してしまった。再放送でチェックしておこう。永山則夫で思い出すのですが、同じ病気で入院した隣のベッドの大正生まれのお爺さんのことです。彼はジパンシーのライターを制作する職人さんなんだが、スゴイ読書家で、一日中、ベッドで新聞なりを全紙読む。書庫同然の山荘を持っていると言う。本もあらゆるジャンルで僕も負けじとばかり読んでいたのですが、お茶の水なので、どんな本でも手には入る。ある日、外出届けを出した時、お爺さんに永山則夫の新刊を頼まれました。永山則夫は全部読んでいると言う。でも、お爺さんはとても陽気な人で、まあ、僕も陽気に振る舞っていたのですが、六人部屋は信じられないくらい明るかった。食事もベッドで寂しくでなく、出来るだけディールームでテーブルを囲んで食事をしたものです。今でも病室で知り合った患者の人たちを懐かしく思い出します。同じ時期、確か新宿の病院で須賀敦子も闘病生活を送っていたんだと今更ながら思います。須賀さんもお爺さんも亡くなった。
そうそう、慶応大学の宗教学准教授の樫尾さんが、「丸山さんの思い出」というエントリーを発信していました。
樫尾直樹(かしおなおき/KASHIO Naoki) Labo » Maintenance Mode
昼間、四天王寺で朱印ラリー、30万冊の古本市も境内でやっていたので、蟹歩きで拝見、古本は一冊だけ買いました。岩井克人の単行本『ヴェニスの商人資本論』(筑摩)200円也。
帰りの天満橋に出たら「川の駅 はちけんや」で高校生達の吹奏楽団が高らかに秋空に向かって奏していた。