小田光雄のブログ記事に反応して

小田光雄『キディランドと橋立孝一郎』がアップされたので、少し僕なりに僕の文責として補記します。

橋立の挫折は、昭和四十四年十一月の阪急三番街三百四十有余坪の出店が、キディランドの資金回転を狂わせ、経営の悪化を招き、問屋筋から、会社更生法適用を浦和地裁に出されてしまったと述べておいたが、表面的にはこの見方が正しい。しかももう一つ見落としてはならない大きな理由があった。キディランド急速成長戦略を遮二無二おしすすめる橋立をある人は、「橋立は極めて信長的である」と評したが、これはズバリ彼の弱点を衝いたものであった。

小田さんの上記の観測はその通りでしょう。ただ、阪急三番街の出店は更生会社のキディランドにとって大成功で資金繰りは上手く回転し、70年、80年代の高度成長、バブルの日本経済を背景において、原宿通りもスポットを当たられ、阪急地下街も紀伊国屋梅田店と同様ショッピングスポットとして脚光を浴び上場も成し遂げたわけです。
確かに阪急三番街三百四十有余坪の出店が、キディランドの資金回転を狂わせたが、紀伊国屋梅田店も田辺茂一が阪急地下街の出店に積極的で全社的にはむしろ危惧をもって故田辺茂一を「暴走だといさめた」というエピソードを聴いたが、当初資金は膨大だったでしょう。でもフタをあければ、予想以上の売り上げで、この大成功が後の紀伊国屋のナショナルチェーン化に拍車がかかったのではないか。
キディランドも予想以上の売り上げだったわけでした。小売業だから日銭が入る。債権も凍結、減額で、一気に資金繰りが良くなった。
このあたりのことを僕のブログで4年前にアップしている。(http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20050805/p1

梅田の阪急三番街紀伊国屋梅田本店キディランド梅田店が四半世記以上前に出店しましたが、賭金が多すぎる、冒険と言われながらそれぞれのオーナーのカリスマ性(田辺茂一、橋立孝一郎)の一言で船出したのです。大成功でした。この成功で紀伊国屋はナショナル・チェーンへと一歩を踏み出す。キディランドは梅田店を持っていることの価値が、早期に会社更生法の適用から脱却出来たのです。
このあたりは再開発でまだまだ、大きな変貌を遂げます。ヨドバシカメラの梅田店出店も大成功だったみたい。僕らが学生時代は大阪駅の北は何にもなかったです。(現在も北大阪は大規模な再開発が進行中ですね。)

そのおり、書籍部門の大宮店店長から梅田店の店長に異動して後にキディランドの代表取締役にもなり現在経営コンサルタントなさっている相馬勝さんが、こんなメールを頂戴した。公開してもいいとの了承をもらったので4年前にこんな風に僕のブログにアップしていました。

ブログの中で橋立孝一郎が出てきてビックリしました。先日それも全くの偶然ですが、世田谷RCで若干触れた内容に符号するのです。つまり、「大阪梅田店への過大投資が更生法適用の引金となったが、その梅田の存在や稼ぎでKLは立ち直った。財務的逼迫がもう1〜2年遅れてくれていたら、橋立は退陣させられずに済んだのに」と。実は本日8月5日は橋立孝一郎の誕生日ですよ。(相馬勝)

僕は橋立の誕生日を知らないで偶然、2005年8月5日にブログをアップしたわけですw。それはともかく、「財務的逼迫がもう1〜2年遅れてくれていたら、橋立は退陣させられずに済んだのに」と。
まさにそうなんです。たらの話になりますが、もし、そうなっていれば、出版流通業界の流れが変わった予感がします。橋立のモットーは「流通革命」で、価格決定権を書店が左右できるシステムの構築で結局、再販維持制度撤廃の責任販売制の徹底だったと思う。確かに業界にとって危険な書店人だったかも知れない。
小田さんが参照している橋立孝一郎の追悼集『風ー橋立孝一郎の軌跡ー』(ポプラ社)は大阪・天満橋にあるエル・ライブラリーに寄贈していますので、興味のある方はご覧になって下さい。