ブログ本文より、時にはコメント応酬の方が傾聴に値する。

小田光雄氏が「『出版人物事典』の間違い1 - 出版・読書メモランダム」で、ネット炎上について書いているが、かって、『希望は、戦争』の赤木智弘氏が僕のブログで色んな人と侃々諤々、コメント応酬したことがありました。
時々炎上になるかなぁと危惧、時には好奇心で期待したが、結局、一度も炎上しなかった。
例えば、無作為にこんなコメントの応酬を見つけました。

>貧困こそマジョリティーだったわけで、
まあ、そうでしょう。最近、老母(大正生れ)と昔のことを時々話すのですが、父親と早く死に別れ母子家庭として育った老母は父親が何で生計を立ていたかは、いまだにわからないと言いますね、詩文とか尺八とかそんな芸事をやっているオヤジの記憶しかないといいますね。多分、今で言うニートな、金のない遊民だったと思う。でも、殆ど現金収入がなくとも(田畑も猫の額)、村全体の相互扶助ですか、地域で生かされていた。やがて老母は村を出て関西の電電公社に就職して電話交換手として働くようになり、父親代わりに仕送りをする。昭和初期の話、戦中間期ですね。母子家庭で小学校しか出ていなくても今のNTTのようなところに正社員として就職できたわけです。その背景には焦臭い時代背景があったわけで、戦場の足音による流動化があって、女の子たちにも有利な就職口があったのでしょうね。
石川啄木の時代とは又違う。そして、確かに高橋さんが指摘し、赤木さんが否定する今の状況の「貧困」について、石川の時代では「貧困」がマジョリティで、老母のオヤジの時代でも「貧困」は何ら疚しく、珍しくなかったから、後ろ指も指されず、地域、親戚で助けてくれた。
そのような<関係性の貧困>について確かに高橋さんは、目配りしていない。
赤木さんの言う、現在の<貧困>はマイノリティーであることが問題なんだと言うことに付記するなら、ひょとして近い将来<貧困>はかってのようにマジョリティになる可能性もある。南北問題の国内化です。だけど、啄木の時代、老母のオヤジの時代では<関係性の豊かさ>があった。でも、今はそれも崩壊した。
今日、斎藤環の『思春期のポストモダン』を読んだのですが、日本では(韓国も含めて)、「ひきこもり」は増えているがヤングホームレスは特に欧米諸国と比べて少ない。なんやかんやと言っても<家族の関係性>が儒教文化圏では、まだ生きている。斎藤さんは欧米では自立のイメージが「家出型」であるが、儒教文化圏では「親孝行型」と、その辺を謎を解明しているが、去年、生田武志さんのトークイベントで、ひきこもりから、ホームレスへの事例はありますか?と質問したんですが、これから増えるだろうという見立てでしたね。家族がかっては地域も「遊民」であれ、「ひきこもり」であれ、ホームレス化する防波堤になっていた。最早そのような防波堤が決壊して一方で「自己責任」と言いつつ、他方でセフティネットを構築する社会的コストをかけると言った事態を選択する方向性があたりまえになったんでしょう。
http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/searchdiary?of=35&word=%c0%d6%cc%da%c3%d2%b9%b0

ブログの本文よりコメントの応酬の方が生産的ですねぇ。炎上のリスクもあるかもしれないけれど、それ以上のハイリターンがあったみたい。
まあ、僕の場合は何の足跡も残さず単なる「捨て台詞」はスパムとして削除しましたが、自分のブログなどの根拠地を持って発言をする人には実名であれ、匿名であれ、それなりにリスペクトしました。
意見が違ってもそれなりに「自分の言葉」で発言する人に対して多少なりとも「聞く耳」を持ってあげれば問題ないんだと思う。
それが、僕の常識からトンデモ発言に聞こえても、単に事実の誤読か、わかってても強引にねじ曲げて言わざるを得ない発言者の「実存を賭けた動機の謎解き」をしたくなりますが、単なる「通りすがり」なら、そんな観察もできない。だから、削除で、終わり。
しかし、最近の僕のブログはおとなしいものです。アクセス数も去年と比べると半減しているのではないか。
ということは、僕のブログが面白くなくなった。コメント欄も承認制にしましたからねぇ。エネルギーが減退したのでしょう。反省。
赤木さんの言う、現在の<貧困>はマイノリティーであることが問題なんだと言うことに付記するなら、ひょとして近い将来<貧困>はかってのようにマジョリティになる可能性もある。この予測は現実味を帯びているのではないか、「マジョリティとしての貧困問題」