もう一つの看取り/「温室の写真」

ロラン・バルト 喪の日記

ロラン・バルト 喪の日記

前日の続きでロラン・バルトの母アンリエットの死をめぐる「喪の記録」について蜂飼耳の出版ダイジェスト2009 冬号の一文から引用する。

母が亡くなった翌日、1977年10月26日に書きはじめられ、2年にわたって綴られたこの日記は、愛する者の死という体験を受けとめようとする苦悩に満ちていて、どのページを開いていても、胸に迫る。/幼くして父を亡くしたバルトにとって、母がいかに大きな存在であったかが伝わってくる。<10月27日 「あなたは女性のからだを知らないのですね!」「わたしは、病気の母の、そして死にゆく母のからだを知っています。」>(略)<11月10日 不在ということの抽象的な性質に衝撃をうけている。とはいえ、焼けつく痛みや、激しい苦しみをあたえるものなのだ。そのことから、抽象概念をよりよく理解するようになった。>(略)/<1978年3月20日 「時間」によって何も移ろったりしないのだ。喪による涙もろさが移ろってゆくだけである。>と、バルトは分析する。母の死を通して、いつか自分にも訪れる死を受け入れることができると感じるようになる、そして、自分が忘れられることは構わない、けれども、母という人がいたことは本に書いておかなければならない、と思うようになる。<6月5日 「記念碑」とは、ひとつの行為であり、認めさせようとする能動性なのである。>と。バルトは、ある本の執筆に取りかかる。1980年に刊行され、遺作となった『明るい部屋』 (花輪光訳、みすず書房)だ。1978年6月9日の日記に「マムの写真の本がうまく書けますように」と教会で祈ったと記されている本のことだ。/バルトは、母の死からまもない時期に、少女時代の母の写真を見つけて強い印象を受ける。「温室の写真」と呼ばれる一枚だ。そこに写っている少女は五歳。それは、母を写したどんな写真とも異なったいた。つまり、その人の「実体を構成するありとあらゆる属性が盛り込まれた」写真だったのだ。生涯を通じて母の徳性であったやさしさや善意をあらわした「本質的な写真」なのだった。『明るい部屋』で、バルトは写真をめぐる二つの要素について論じている。一つは「ストゥディウム」。道徳的、政治的な教養(文化)を仲立ちとする「一般的な関心」「平均的な感情」を呼び起こすもののことだ。もう一つ、「プンクトゥム」。刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり、「私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然」のことだ。バルトにとって「温室の写真」は、まさに「プンクトゥム」であり、「言葉を欠いた悟り」をもたらすものだった。「それはかってあった」という以上のことはいえず、掘り下げたり、別のものに変換できないものなのだ。/バルトは「書く」という「仕事」と向き合う。悲しみを消し去ることはできない。それでも、「停滞した状態」から「流れる状態」へと移行させようとつとめる。<1979年1月18日 マムが亡くなったときから、なにも「構築」したくなくなっているーーエクリチュールはべつだ。なぜか? 文学とは、「高貴さ」の唯一の領域だからである(マムがそうだったように)。>仕事机の上に「温室の写真」を置いて、バルトは「あるがまま」の母のすがたを眺めつづける。時は過ぎ、分厚く積み重なっていく。母と一体化していた喪の時間は少しずつかたちを変えていく。とはいえ、悲しみはなくなるわけではなく、「永遠なるもののなかに移行してしまった」のだった。

僕にも、そして、他の人にとっても「プンクトゥム」として「温室の写真」を抱え込んで生きているのかもしれない。
ただ、その「温室の写真」がカタチあるものとして今の僕には見えない。
先月、上京した目的の一つに友人に会うということだったが、彼は三年前に母を亡くした。いまだに「喪」が続いている状況で彼に会うことがかなわなかった。彼には「温室の写真」がありありと見えすぎるのでしょうか。その呪縛から解き放たれる時を静かに見守るしかないのかもしれないが、僕の何倍もエネルギッシュな生を走り抜けた彼にとって「身近な人の死」はかくも激しい痛みをもたらすものか。