身体を張った「小説の力」

ヘヴン
川上未映子の『ヘヴン』を読了。
素晴らしい小説に出会った興奮の残余がいまだに燻っている。
いつか『ヘヴン』について僕なりの言葉で書いてみたい。今はまだ書けない。
参照:宇野常寛の書評
http://sankei.jp.msn.com/culture/books/091004/bks0910040837005-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/culture/books/091004/bks0910040837005-n2.htm
そう言えば前日、こちらの記事をアップしたのですが、参照としてリンクしたこちらは『ヘヴン』に通底しているところがある。

私が常日頃からこういうことを言われるのは、私にとってフェミニズムクィア理論が密接に結びついているからかもしれない。フェミニズムは必ずしも異性愛女性のことだけを考える思想ではないし、クィア理論は必ずしも同性愛者やトランスジェンダーのことだけを考える思想ではない。両者の射程は思ったよりも広く、そして互いに裏切りつつ、協力し合い、反目しつつ、アイディアを盗み合う。その両方をきちんと分けられない私にとって、「一般の女性」や「一般の人」という言葉はほとんど意味を持たない。なぜならそういう言葉が発せられるとき、ほとんどの場合、異性愛の、貧困ではない、障害のない、人種・民族的にマジョリティの、先進国の人を指しているからだ。私のフェミニズムはそういう人たちの利益のためにあるのではないし、そういう人たちに「わかりやすい」言葉で説明するような義理も、動機も一切ない。むしろある種のマジョリティを「一般」というレトリックで欺瞞的に表現するその態度こそ、私が批判したいと常日頃思っているようなイデオロギーだ。
http://wan.or.jp/modules/articles0/index.php?page=article&storyid=250よりー

小説ならこういう地平で書ける。川上未映子の『ヘヴン』はそれを成し遂げた小説だと思う。
いじめる側の百瀬、二ノ宮がゲンダイ思想をリードする社会学者や哲学者の誰かさんと重なるところがあるし、いじめられる側のコジマや僕は川上未映子自身を彷彿させるところがあるのは当然ながら、いじめられるキャラではないけれど、何故か某脳科学者、某分子生物学者について考えました。最小限、意味のあるものは、「脳」を含めた「身体」(自然)であるのは間違いないような気がする。身体を張ったもの。
人文<知>よりは小説の力。
参照:「世論の曲解」菅原琢 | 女子リベ 安原宏美--編集者のブログ