「ノウのないジジィ」が読む「心脳問題」

文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ
斎藤環から茂木健一郎の書簡・5信を読み始めると、前日紹介した村上春樹の『偶然の旅人』を引用したくなりました。

 「あさって、都内の病院に行って乳癌の再検査を受けることになっているんです」、車をショッピング・モールの駐車場に停め、サイドブレーキを引いてから、彼女はそう言った。「定期検診」のレントゲン写真に疑わしい影が見えるので、もう一度詳しいチェックをしたいって連絡があったんです。もしそれが本当に癌だったら、すぐに入院して手術を受けなくてはならないかもしれません。今日こういう風になっちゃたのは、あるいはそのせいもあったのかもしれない。つまり……」
 沈黙が少しあった。そして彼女は何度か強く首を左右に振った。
 「自分でもよくわからない」
 調律師はしばらくのあいだ、彼女の沈黙の深さを測っていた。耳を澄ませ、その沈黙の中に微妙な響きを聴き取ろうとした。
 「火曜日の午前中なら僕は、だいたいいつもここにいます。」と彼は言った。「たいしたことはできないけど、話し相手くらいにはなれると思う。もし僕みたいなものでよければ」
 「誰にも言ってないの。夫にも」
 彼はサイドブレーキの上に置かれた彼女の手に、手を重ねた。
 「とても怖い」と彼女は言った。「ときどき、何も考えられなくなってしまうの」
 隣の駐車スペースにブルーのミニヴァンが停まり、中から不機嫌そうな顔をした中年の夫婦が降りてきた。会話の声が聞こえた。二人は何かを責め合っているようだった。どうでもいいような何かを。彼らが行ってしまうと、再びあたりに沈黙が戻った。彼女は目を閉じていた。
 「僕は偉そうなことを言える立場にはないけれど」と彼は言った。「しかし、どうしたらいいのかわからなくなってしまったとき、僕はいつもあるルールにしがみつくことにしているんです」
 「ルール?」
 「かたちのあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かたちのないものを選べ。それが僕のルールです。壁に突きあったときにはいつもそのルールに従ってきたし、長い目で見ればそれが良い結果を生んだと思う。そのときはきつかったとしてもね」
 「そのルールはあなたが自分で作ったの?」
 「そう」と彼はプジョーの距離計に向かって言った。「ひとつの経験則として」
 「かたちあるものと、かたちないものと、どちらを選ばなくちゃならないとしたら、かたちのないものを選べ」と彼女はくり返した。
 「そのとおり」
 彼女はひとしきり考えた。「そう言われても、今の私にはよくわからない。いったい何にかたちがあって、何にかたちがないのか」
 「そうかもしれない。でもそれはたぶん、どこかで選ばなくちゃならないことなんです」

かたちあるものと、かたちないものと選ぶ逡巡が「心脳問題」かなぁと思ってしまった。
書籍出版 双風舎:【連載】「脳は心を記述できるのか」 書籍出版 双風舎:【連載】「脳は心を記述できるのか」

ダーウィンが進化論や地動説に感じていたものを、強いてリアリティであると考えるなら、それはけっして「実感的リアリティ」ではなくて「構造的リアリティ」とでもいうべきものでしょう。
 なぜなら、もし「見たものをありのままに信ずる」という姿勢がつねに真実ならば、ヒトが猿から進化した(とは『種の起源』には書かれていませんが)とか、地球が太陽の回りをまわっている、という発想は、人々の反発しか買わないでしょうから。
 「地球のほうがまわってる? んなバカな」「人の祖先が猿なわけないだろ、常識的に考えて」と、人々から非難されるのがオチです。「実感」や「常識」のリアリティは、これほど強力なものです。だからいまでも「地球は平たい」とか「進化論はデタラメ」とか確信して疑わない人が山ほど存在するのです。
コペルニクスの地動説も、ダーウィンの進化論も、そしてフロイトの無意識ですらも、共通しているのはひとつのこと、世界は“いまここ”で見たまま、感じられたままのものではない、という真理の主張にほかなりません。だからこそ熱狂的に受けいれられる一方で、猛烈な反発や弾圧をこうむってきたのです。
しかし、すくなくとも、二〇世紀以降の科学は、こうした実感主義に背を向けながら進歩してきたのではなかったか。
 茂木さんのクオリアに私がしつこく疑義を呈し続けているのは、それがややもすると、かつての実感主義のほうに取りこまれてしまう危険性があると考えるからです。もちろん茂木さんはきわめて真剣に、クオリアの発生機序を解明しようとされている。しかし、その手続きはあくまでも、“クオリアの実在性”を自明の前提にしてはいませんか?
http://sofusha.moe-nifty.com/blog/2010/05/5-28f1.html

なかなか読み続けるにはハードなテキストですが、頑張ります。