暴力と差別(アライグマも)

映画「ザ・コーヴ」の上映中止に関して色んなコメントを読むと
種としての<人>を相対化したい気分になる。
一番、悪いのは<ヒト>でしょう。
イルカやクジラをそんなに大切に思うのなら、
この地球からいち早く、<ヒト>は退場するしかないのではないか?
「紙の本が亡びるとき?」のように……
だけど、言語(文化)化した<人間>はそんな短絡な運動はしない。
<イルカやクジラ>(対象)に関心をヒートアップするフリをしつつ、
その実、<イルカやクジラ>を手段化して
自分たちの狭い文化を擁護、正当化しているに過ぎない。
どっちも、どっち。
彼らの映画がせめて、<イルカやクジラ>(対象)の関心を消去して
「関係を消去する関係」の構築、芸というか、
そんなドキュメンタリー映画なら、見てみたいが、
予告編を見る限りは、そんなやややこしい屈折がない。
「欧米文化」であれ、日本の「辺境文化」であれ、
<イルカやクジラ>にとって、あずかり知らぬことだ。
せめて、マゾヒズム的な視点でもって、
結局、<イルカやクジラ>を手段化して
自分たちのご都合を「快適なもの」にしてるに過ぎないことを伝えるべきではないか。
そのような位相では、少なくとも互いに誤読をともないつつ、
コミュニケートが継続、更新できる。
最終的な解はないかもしれない、でも少なくとも、
暴力は保留され、差別意識も徐々に埋まっていくだろう。
http://sofusha.moe-nifty.com/blog/2010/06/post-8726.html
http://sofusha.moe-nifty.com/blog/2010/06/post-a93d.html
藤原新也トークから一部引用

つまり対象者の顔を出すことと、イルカ捕獲を反対することとは同じ世界観、差別意識から出ているもののように思えてならないのだ。
そういった人権侵害(日本では配給会社が自主的に対象者の顔にモザイクをかけているが日本以外の西欧世界のあらゆる場所で対象者の顔は開示されている)、あるいは人種差別というものが色濃く出ている可能性のある作品がかりに法に触れないにしても(触れるのかも知れない)表現の自由という名のもとに擁護されるべきなのかどうなのか、軽々とは賛同しかねるのである。 ーhttp://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php