諫早市立図書館

夕暮の緑の光 (大人の本棚)

夕暮の緑の光 (大人の本棚)

みすず書房大人の本棚岡崎武志編『夕暮の緑に光ー野呂邦暢随筆選』を読んでいる。随筆57編が収録されているのですが、偶々、ページを捲ったら、『諫早市立図書館』という標題に目が行き、最初に読む。
野呂は市立図書館で小説の勉強をしていたのです。
木造二階建てのペンキも剥げかけた建物であったが、その前は警察署で、野呂が高校生の頃、郵便局であったらしい。そして、警察署と郵便局がしかるべき建物におさまってから、ここに落ちついたわけです。そんな由来があるから、一階にも二階にも小部屋が沢山あり、こっそりと一人でものを書くのに最適だったらしい。

[…]九時開館と同時に書棚からもっともらしい書物を借り出し、二階へ上った。広辞苑の他に「世界第思想全集」などというのを借りるのがきまりであった。閲覧票を見た館長さんが「トマス・アキナスウパニシャッド聖典の次にカントと論語というのは一体あなたは何を勉強しているんですか」と不思議がった。カントだろうとパスカルだろうと私にしてみれば隣に座る閲覧者に原稿用紙が見えない衝立になりさえするものなら何でも良かったのである。大思想全集というのはどれも分厚い。学問好きの館長さんは、ヘーゲルを研究する前にカントを、いやそれ以前にデカルトを、と助言してくれた。好意はかたじけなかったが、小説のことで頭がいっぱいになっている私は世界の大思想にいささかの興味もなかった。しかし受験学生ではあるまいし、本を借り出さずに原稿用紙だけ持って図書館の机を占領するのは気がひけた。それで毎日、手当たりしだいに本を借りた。
 「もうプラトンを読んでしまって、きょうはモンテスキューですか」

 「図書館」に関するエッセイは急には思い出さないが、面白いものが一杯あるような気がしますねぇ。「図書館」のアンソロジーで小説の抜き書き、エッセイ、コラムなどを編んだものがあったら面白い。寡聞にして僕が知らないだけで、あるかもしれないですねぇ。
 そうそう、エル・ライブラリーに直接、社会・労働の専門資料と関連はないのですが、松岡正剛の『千夜千冊』セットが寄贈本として閲覧室に鎮座してるのです。
 自宅では、なかなか重すぎて、圧倒されて、地元の図書館にもあるのですが(僕がリクエストしたのです)、じっくりと読むことができない。
 エル・ライブラリーなら、野呂さんではないけれど、じっくりと『千夜千冊』を読了できるかもしれない。

松岡正剛千夜千冊

松岡正剛千夜千冊

 館長さんは呆れかえった。しかし朝に道をきけば夕に死すとも可なりです、私はぬけぬけとホラを吹くほど面の皮が厚かった。書くのに疲れると、モンテスキューマルクスを両手にかかえ上げて運動に専念した。K社の「資本論」よりT社の「資本論」が重かった。本を上げたり下げたりしていると肩の凝りがほぐれる。「世界大思想全集」は衝立がわりにもバーベルにもなるのだった。マルクスよ、許せ。

 多分、「千夜千冊」の方が重いですよ(笑)。
 このエッセイの時代背景は東京オリンピックが開催された年で僕が20歳(1964年)ですねぇ。翌年、野呂は28歳の時「文学界」新人賞佳作入選、翌年発表した『壁の絵』が芥川賞候補となるわけです。
 一ヶ月で百冊あまりの大思想本を借り出したとのこと。お陰で諫早市立図書館における図書閲覧者の統計の「思想」の部が飛躍的に増大したはずである、と野呂は書く。
 最近はそうでもないけれど、僕は地元の図書館で300冊以上は借りているでしょうねぇ。全部読まなくても借りる。
 つまみ食いでもいいから市民、府民が図書館で本を借りる習慣がもっと、もっと根づけばいいですねぇ。
 いまだに、僕が良く図書館で本を借りていると言うと、「有料じゃあないんですか?」って訊く人がいますよ。