私が怖いのは放射線ではなくて、放射線でがんになることなのだ。

僕の身体は放射線治療で汚染されているとも言える。
目いっぱい内部被曝しているから原則もう一度放射線を治療としても浴びることは出来ない。
『風の旅人 44号』に収録されている田口ランディのエッセイ『ゾーン』を読む。

風の旅人 44号 FIND THE ROOT此岸の際 1 まほろばsupe

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 ひどくだるかった。暑さにやられたんだろう。
 この先、私ががんになったら「あのときゾーンで被曝したからだ」と思うのだろうな。
 線量の高い場所では三十マイクロシーベルト毎時もある。かれこれ四時間以上、そこにいた。どのような理由でがんになろうと、私ががんになったらそれは、身勝手に『ゾーン』にやって来て、自ら被曝したからなのだ。そのような物語に、私はこの瞬間、捉えられてしまったと思った。
 いつも思う。私が怖いのは放射線ではなくて、放射線でがんになることなのだ。放射線を浴びてもがんにならないのであれば、放射線は紫外線程度の恐ろしさしかないだろう。では、日本人の三人に一人ががんで死ぬ時代に、がんになることを恐れるのは、死ぬことが怖いからだろうか。末期がんのターミナルケアの取材をしていて、よくこの問いを繰り返した。がんという病気がもつある種の不吉さは、なにゆえなのか。なぜ人は成人病よりがんを恐れるのか。交通事故よりがんを恐れるのか。人間にとってがんとはなんだろうか……と。がんは強い物語性を帯びた病気だ。がんをめぐる物語は繰り返し複製され、テレビや雑誌や小説や映画によってさらに強化される。
 がんになることと、人間の幸、不幸は関係ない。私はそれを知っている。病むことは深い意味のあることだ。だが、そのことを語ると「それは事の重大さを見ていない人間の言うことだ」と批判を受ける。受けるような気がする。そういえば受けたことはなかったがおおむね想像はつく。あなたは福島で生きている人間の身になって考えたことがあるのか、がんになっても不幸じゃないと本気で言えるのか。誰かが唾を飛ばして言うだろう。
 言えるさ。がんが不幸なら人間の三分の一が不幸になる。がんになることは不幸だと思う人には不幸かもしれないが、そうでない人にとってはそうでない。そして、人生の意味と原発の問題は重なっているが別のことでもある。この二つを混同すると、なにかを失う。とても大切なものだ。だが……そうは言っても、この二つは濡れたセロファンみたいにぴったりとひっついてしまって、まるで剥がれないのだ。
 運転手の男性が、たばこを取り出しておいしそうに煙を吐き出した。
 私はそのたばこを一本もらった。
 「あれ、たばこ、吸うんですか?」
 「ときどきね」
 思いきり煙を吸い込んで、吐く。
 さあ、私ががんになったらそれは被曝のせいか、たばこのせいか、それとも両方か。ついでに、今夜はたらふく飲んでやろうと思った。(p136)