花田清輝/レトリック・キング

花田清輝(1909〜1974)を読みたくなったら、未来社の個人全集を引越しの時、処分したことを思い出した。他の本は二束三文で、古本のオヤジに、そう言えば、花田清輝があると言ったら、眼の色が変った。ぼくは彼の思想の検証をするほど勉強もしていないし、当時の思想状況、吉本隆明との論争の是非を問われても、何にも答えられないが、彼の本を読むと難解さよりは、そのレトリック、メタファ−に感応して、彼の思想性の全体を通り過ぎて、デテール、真偽の程は分らぬエピソード、韜晦を楽しんでいたと思う。そうだからこそ、すべての思想が色褪せても、彼の本は未だに読んで面白いと、少数ながら、固定のファンが支えており、古書の市場価値が結構、高いのであろう。ネットで検索したら、“花田清輝掲示板”なるものがありました。『全集・現代文学の発見』(學藝書林)は全卷(16卷、別卷一冊)揃えたいものです。これも処分したのですが、図書館のリサイクル棚で、やはり花田清輝が収録されている『黒いユーモア』の卷と、『存在の探求上、下』などをみつけて、もう一度、花田清輝が、ぼくの中にちょっぴり、インプットされたのです。まあ、極めつけは、講談社版の『花田清輝全集15卷別巻2』でしょう。花田清輝著『楕円幻想』現代文学の発見八巻『存在の探求下巻』に収載)から一部引用します。

惑星の歩く道は楕円だが、檻のなかの猛獣の歩く道も楕円であり、今日、我々の歩く道もまた、楕円であった。/いうまでもなく楕円は、焦点の位置次第で、無限に円に近づくこともできれば、直線に近づくこともできようが、その形がいかに変化しようとも、依然として、楕円が楕円である限り、それは、醒めながら眠り、眠りながら醒め、泣きながら笑い、笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信じることを意味する。これが曖昧であり、なにか、有り得べからざるもののように思われ、しかも、みにくい印象を君にあたえるとすれば、それは君が、いまもなお、円の亡霊に憑かれているためであろう。焦点こそ二つあるが、楕円は、円とおなじく、一つの中心と、明確な輪郭を持つ堂々たる図形であり、円は、むしろ、楕円のなかのきわめて特殊のばあいーすなわち、その短径と長径とがひとしいばあいにすぎず、楕円のほうが、円よりも、はるかに一般的な存在であるともいえる。ギリシャ人は単純な調和を愛したから、円をうつくしいと感じたでもあろうが、矛盾しているにも拘わらず調和している、楕円の複雑なのほうが、我々にとっては、いっそう、うつくしいはずではなかろうか。―花田清輝

ポーは、その『楕円の肖像画』において、生きたまま死に、死んだまま生きている肖像画を示し、−まことにわが意を得たりというべきだが、それを楕円の額縁のなかにいれた。その楕円の額縁は、うつくしい金いろで、ムーア風の細工がしてあり、燭台の灯に照らされ薄闇のなかで仄かな光を放っていた。―花田清輝

楕円の一つの焦点は現時点に足場を設ける。もう一つは未来に属する。資本家は未来の焦点をすでに獲得してしまって、剰余価値を生み出す。二つの焦点はより普遍化へとダイナミックに更新して外部さえも取り込む。かって、外部であった「死」も「生きたまま死に、死んだまま生きている肖像画」のごとく生/死を連続として捉え、集団としての把握は文化を背景とした人民概念として人を見るのではなく、羊の群れ、人口概念としてフーコーの生権力は人を監視する。―大澤真幸

「神であって人間」、この二つの焦点を包含する一つの中心は一神教であっても、無限に更新が許される。十戒がいつの間にか、人権概念で十戒を侵犯する権利へと転換していく事情も、自己否定を内在するキリストのありように、そのパラドックスの秘密がある。イスラームにあって「コーラン」は人間の言葉でなく、神の言葉であり、人の世界と断絶した「外部」なのだ。ただ、イスラームの法規範として人間にかかわってくるとき、「内部」として作用せざるえを得ない。ただ、二つの焦点がより近接し、焦点は一つ、中心は一つと、円形に見えるのであろう。でも、円も楕円の一種であれば、形は全く違った文明に見えても、イスラームもキリストも底流では風穴が開いて道は繋がっているはずだ。―大澤真幸

大澤真幸の『文明の内なる衝突』を読みながら、花田清輝の「楕円幻想」について考えました。大澤さんにも『資本主義のパラドックスー楕円幻想』という著書があるが、こちらはまだ読んでいません。
追記:「武田徹BBS」5/3の米軍のイラク人捕虜虐殺映像に関するブログを読む。深くナットク。
復興期の精神 (講談社学術文庫)室町小説集 (講談社文芸文庫)鳥獣戯話・小説平家 (講談社文芸文庫)花田清輝 (ちくま日本文学全集)存在の探求〈上巻〉 (全集 現代文学の発見 第7巻)言語空間の探検 (全集 現代文学の発見 第13巻)日本的なるものをめぐって (全集 現代文学の発見 第11巻)歴史への視点 (全集 現代文学の発見 第12巻)存在の探求〈下巻〉 (全集 現代文学の発見 第8巻)

斎藤環/マトリックス

マトリックス』三部作は見ることは見たのですが、そしてその感想もBBSなりブログで、まとまりなく、書き散らしているのですが、生半可に批評家の言説を引用したり、ネット上のレビューの助けを借りたりで、判ったような風をしていましたが、「マトリックスの謎」は知らぬ間に増幅していったことは否めない。
大塚英志吉本隆明の言うように、あんまり「深読み」すると、陥穽に落ち込んで身動き取れなくなるよと『だいたいで、いいじゃない。』(文春文庫)を提唱していたが、それでも、マトリックスのことはず〜と、気にはなっていたのです。その謎の氷解とまでは行きませんが、糸口、考え方のヒントを斎藤環著『フレーム憑き』に収載されている★象徴界と選択−『マトリックス』(24〜39頁)は与えてくれました。彼はジャック・ラカンの三つのトポス「現実界」、「象徴界」、「想像界」を、マトリックス想像界マトリックスを成立させているプログラムのソースコード象徴界ザイオン現実界と想定する。その前提に立って、一部引用してみます。

日常的な現実において、われわれは自由意志に基づいて、自ら行為を選択して生きているかにみえる。しかし、精神分析的に考えるなら、そうした行為は自由意志に基づくように見えて、実は象徴的に選択させられている「症状」にほかならないのだ。マトリックスのレヴェルで発揮される想像的な自由意志は、プログラムのレヴェルにおいては、たんにオラクルたちの象徴的な命令に従っているだけだ。しかしもちろん、オラクルたちも一方的な支配者ではない。効率よく命令に従って貰うべく人間心理を研究しなければならなかったのだとすれば、オラクルもまた人間の特性に従ってプログラムを組まなければならなかったのだ。支配−被支配がこのように入れ子関係になるところが、プログラムの象徴的性質をあらわにしている。/ここではじめて、ネオの位置づけがはっきりする。選択させることで安定を得るマトリックスの世界は、しかし選択性の不確実性ゆえに、一定頻度のアノマリーを生む。これが蓄積・統合された存在が「救世主」なのだという。救世主の存在意義は、自らの特異な性質に基づいてマトリックスのプログラム・ソースを書き換え、リロードすることで、アノマリーの性質も組み込みながらマトリックスのバージョンアップを行うことだ。オラクルの預言は、ネオをソースへと導くが、そこでネオはアーキテクトから選択を迫られる。/ソースを書き換え人類存続の道を選ぶか、トリニティ救出のために元の世界へと帰還するか。選択とはいえ、人類愛プログラムを組み込まれた救世主は、これまで例外なく前者を選んできた。しかしネオは、トリニティへの愛から後者を選んでしまう。(略)/性愛の力によって、三界のいずれにも属しない、リアルな存在になること。その存在位置ゆえに、マシン、マトリクッス、ザイオンという三者が平和共存するための調停役たりうるということ。そう、このときネオは、構造的にはラカンのいう「対象a」の位置を占めることになる。これに付け加えるなら、エージェント・スミスはプログラム内存在として、マトリックスが生み出した究極のヒステリー患者だ。かれが転移によって増幅し、マトリックス世界を覆っていく過程を想起しよう。そして「ヒステリー」が最終的には、内に抱え込んだ欲望の原因=「対象a」=ネオによって内破される可能性まで、この映画は正確に描き出す。つまり、これが私の「ロールシャッハ」的反応である。/「欲望」が存在しないマシン世界で、象徴的に反復される「選択」の集積から、ひとつの「現実的なもの」(=ネオ)が析出してくる。それゆえ彼の発揮する超能力は、いささかもオカルト的なものではない。その能力は、ネオが三界のいずれにも所属しない存在であることを視覚化すべく設定されているのだ。[……]

う〜ん、少しだけ見えてきたような気もするが、自分の言葉でアナウンスするまでに到っていない。
博士の奇妙な思春期フレーム憑き―視ることと症候文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ

斎藤環

大阪府立図書館経由で、『ゴダール全評論・全発言』?、?と、斎藤環の『フレーム憑き』(青土社)が地元の図書館に入荷し、借りることが出来る。本来なら府立図書館まで行きたいのですが、交通の便が悪いのです。ゴダールのものは勿論、映画評論ですが、斎藤環さんのも映画を中心に、漫画、アニメなどを含む、視覚文化一般の評論集です。先月はまだ、単行本化されていないが、雑誌連載の作家評論を図書館のバックナンバーで摘まみ食いしましたが、精神分析医は文芸評論、映画評論、など、過激に発信して、結構、ハラハラさせる逸脱の書き振りである。
 そのあたりの事情は彼自身、はしがきで

しかし、いかに私が文化的「野蛮人」ならぬ「無頼漢」とはいえ、ここまでやることにはためらいもあった。私がこの本の出版を積極的に引き受けることにしたのには、別の理由がある。/現代において決定的に重要な問いかけは、おそらくたった一つしかない。/「リアルとは何か」という問いかけである。

 アニメーション音痴なので、第三部のアニメーションの享楽から読み始める。エヴァ以降のアニメの状況を「リアリティ」をキーワードに分析して行く。
 ★虚構においては「嘘のレベルが一定である」必要がある。ところが、まさにアニメは、この掟を侵犯することで成立する表現なのだ。「絵」は文字だが、「動き」はリアリティそのものなのだ。ただ、テクストのアニメを殆ど見ていないので、そんなものかと、頷くばかりで、せめて、ここに紹介されたアニメぐらいはレンタルで借りようかと、メモするのが精一杯です。
 ★しかし、宮崎駿を論じた『倒錯王の倫理的出立』は、只今現在の僕の関心どころとフィットしました。斎藤は「生命論ファシズム」を回避する装置として宮崎の中に語りえぬルイス・キャロルが生きていると、それを肯定的に捉えているのです。例えば、宮沢賢治の言った「世界全体が幸福にならなければ個人の幸福はありえない」と言った言い回しは、まさにファシズム的な理想と紙一重であると、こうしたことを意識的に検証すべきだと、彼は書いているのです。本書から引用します。

……それではなぜ、宮崎はぎりぎりのところで生命論ファシズムを回避し得たのか。単に批評的・懐疑的であることは容易なことだ。しかしそれだけでは、一人の作家がこれほど創造的であり続けることはむずかしい。彼に創造者たる高揚をもたらすものが、生命論ではないとしたら、いったい何だろうか。/そう、それこそが彼の「小児愛」だ。虚構の少女へのと向けられた叶えられることのない性愛だ。生命論者のセクシュアリティは、手塚作品にみられるように、しばしば多形倒錯的になる。しかし宮崎は、一貫して禁欲的なまでに純粋なロリコンであった。創造の中核に、生命論の代わりに少女愛を置くこと。それがこれほどの解毒作用を持ちうるなどと、いったい誰が想像し得ただろう。虚構の少女に向けられて欲望こそが、作者に生命論に断念と、そこからの出立を強いてやまない。その断念と出立のダイナミズムこそが、宮崎作品のリアルなのである。/宮崎駿の倫理と創造性は、彼が倒錯者である限りにおいて保証される。このことを無視したいかなる擁護も、彼を生命論の陥穽から救えないだろう。われわれが宮崎作品を享受することは、彼の不能の愛に感謝することにおいて、はじめて可能になるのだから。