斎藤環/マトリックス

マトリックス』三部作は見ることは見たのですが、そしてその感想もBBSなりブログで、まとまりなく、書き散らしているのですが、生半可に批評家の言説を引用したり、ネット上のレビューの助けを借りたりで、判ったような風をしていましたが、「マトリックスの謎」は知らぬ間に増幅していったことは否めない。
大塚英志吉本隆明の言うように、あんまり「深読み」すると、陥穽に落ち込んで身動き取れなくなるよと『だいたいで、いいじゃない。』(文春文庫)を提唱していたが、それでも、マトリックスのことはず〜と、気にはなっていたのです。その謎の氷解とまでは行きませんが、糸口、考え方のヒントを斎藤環著『フレーム憑き』に収載されている★象徴界と選択−『マトリックス』(24〜39頁)は与えてくれました。彼はジャック・ラカンの三つのトポス「現実界」、「象徴界」、「想像界」を、マトリックス想像界マトリックスを成立させているプログラムのソースコード象徴界ザイオン現実界と想定する。その前提に立って、一部引用してみます。

日常的な現実において、われわれは自由意志に基づいて、自ら行為を選択して生きているかにみえる。しかし、精神分析的に考えるなら、そうした行為は自由意志に基づくように見えて、実は象徴的に選択させられている「症状」にほかならないのだ。マトリックスのレヴェルで発揮される想像的な自由意志は、プログラムのレヴェルにおいては、たんにオラクルたちの象徴的な命令に従っているだけだ。しかしもちろん、オラクルたちも一方的な支配者ではない。効率よく命令に従って貰うべく人間心理を研究しなければならなかったのだとすれば、オラクルもまた人間の特性に従ってプログラムを組まなければならなかったのだ。支配−被支配がこのように入れ子関係になるところが、プログラムの象徴的性質をあらわにしている。/ここではじめて、ネオの位置づけがはっきりする。選択させることで安定を得るマトリックスの世界は、しかし選択性の不確実性ゆえに、一定頻度のアノマリーを生む。これが蓄積・統合された存在が「救世主」なのだという。救世主の存在意義は、自らの特異な性質に基づいてマトリックスのプログラム・ソースを書き換え、リロードすることで、アノマリーの性質も組み込みながらマトリックスのバージョンアップを行うことだ。オラクルの預言は、ネオをソースへと導くが、そこでネオはアーキテクトから選択を迫られる。/ソースを書き換え人類存続の道を選ぶか、トリニティ救出のために元の世界へと帰還するか。選択とはいえ、人類愛プログラムを組み込まれた救世主は、これまで例外なく前者を選んできた。しかしネオは、トリニティへの愛から後者を選んでしまう。(略)/性愛の力によって、三界のいずれにも属しない、リアルな存在になること。その存在位置ゆえに、マシン、マトリクッス、ザイオンという三者が平和共存するための調停役たりうるということ。そう、このときネオは、構造的にはラカンのいう「対象a」の位置を占めることになる。これに付け加えるなら、エージェント・スミスはプログラム内存在として、マトリックスが生み出した究極のヒステリー患者だ。かれが転移によって増幅し、マトリックス世界を覆っていく過程を想起しよう。そして「ヒステリー」が最終的には、内に抱え込んだ欲望の原因=「対象a」=ネオによって内破される可能性まで、この映画は正確に描き出す。つまり、これが私の「ロールシャッハ」的反応である。/「欲望」が存在しないマシン世界で、象徴的に反復される「選択」の集積から、ひとつの「現実的なもの」(=ネオ)が析出してくる。それゆえ彼の発揮する超能力は、いささかもオカルト的なものではない。その能力は、ネオが三界のいずれにも所属しない存在であることを視覚化すべく設定されているのだ。[……]

う〜ん、少しだけ見えてきたような気もするが、自分の言葉でアナウンスするまでに到っていない。
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