斎藤環

大阪府立図書館経由で、『ゴダール全評論・全発言』?、?と、斎藤環の『フレーム憑き』(青土社)が地元の図書館に入荷し、借りることが出来る。本来なら府立図書館まで行きたいのですが、交通の便が悪いのです。ゴダールのものは勿論、映画評論ですが、斎藤環さんのも映画を中心に、漫画、アニメなどを含む、視覚文化一般の評論集です。先月はまだ、単行本化されていないが、雑誌連載の作家評論を図書館のバックナンバーで摘まみ食いしましたが、精神分析医は文芸評論、映画評論、など、過激に発信して、結構、ハラハラさせる逸脱の書き振りである。
 そのあたりの事情は彼自身、はしがきで

しかし、いかに私が文化的「野蛮人」ならぬ「無頼漢」とはいえ、ここまでやることにはためらいもあった。私がこの本の出版を積極的に引き受けることにしたのには、別の理由がある。/現代において決定的に重要な問いかけは、おそらくたった一つしかない。/「リアルとは何か」という問いかけである。

 アニメーション音痴なので、第三部のアニメーションの享楽から読み始める。エヴァ以降のアニメの状況を「リアリティ」をキーワードに分析して行く。
 ★虚構においては「嘘のレベルが一定である」必要がある。ところが、まさにアニメは、この掟を侵犯することで成立する表現なのだ。「絵」は文字だが、「動き」はリアリティそのものなのだ。ただ、テクストのアニメを殆ど見ていないので、そんなものかと、頷くばかりで、せめて、ここに紹介されたアニメぐらいはレンタルで借りようかと、メモするのが精一杯です。
 ★しかし、宮崎駿を論じた『倒錯王の倫理的出立』は、只今現在の僕の関心どころとフィットしました。斎藤は「生命論ファシズム」を回避する装置として宮崎の中に語りえぬルイス・キャロルが生きていると、それを肯定的に捉えているのです。例えば、宮沢賢治の言った「世界全体が幸福にならなければ個人の幸福はありえない」と言った言い回しは、まさにファシズム的な理想と紙一重であると、こうしたことを意識的に検証すべきだと、彼は書いているのです。本書から引用します。

……それではなぜ、宮崎はぎりぎりのところで生命論ファシズムを回避し得たのか。単に批評的・懐疑的であることは容易なことだ。しかしそれだけでは、一人の作家がこれほど創造的であり続けることはむずかしい。彼に創造者たる高揚をもたらすものが、生命論ではないとしたら、いったい何だろうか。/そう、それこそが彼の「小児愛」だ。虚構の少女へのと向けられた叶えられることのない性愛だ。生命論者のセクシュアリティは、手塚作品にみられるように、しばしば多形倒錯的になる。しかし宮崎は、一貫して禁欲的なまでに純粋なロリコンであった。創造の中核に、生命論の代わりに少女愛を置くこと。それがこれほどの解毒作用を持ちうるなどと、いったい誰が想像し得ただろう。虚構の少女に向けられて欲望こそが、作者に生命論に断念と、そこからの出立を強いてやまない。その断念と出立のダイナミズムこそが、宮崎作品のリアルなのである。/宮崎駿の倫理と創造性は、彼が倒錯者である限りにおいて保証される。このことを無視したいかなる擁護も、彼を生命論の陥穽から救えないだろう。われわれが宮崎作品を享受することは、彼の不能の愛に感謝することにおいて、はじめて可能になるのだから。