蓮実重彦/中原昌也/京大11月祭

京大のガラパゴス・プロの企画で、蓮実重彦中原昌也の映画談義がありました。プロレスのノリで受けて立つよと蓮実さんはネクタイもきちんと締めて秋に相応しい黄褐色のブレザーできちんと決めてダンディな格好でなのに、、中原さんは無精ひげ、髪も手入れしてない感じ、今、青山真治の映画にアクターとして出演しているらしい。撮影中で、飛んで来たらしい。フードつきのジャンバー?というか、お世辞の言いようのない観客席をいれて一番さえない格好であらわれました。

年は親子ほどの差、前東大総長対中卒と、登壇した二人が並んで座ったら、それだけで、何か起こりそうな雰囲気がありました。学生の映画史を総覧する格調高い紹介で、蓮実さんがマイクをとって余裕たっぷりな弁説さわやかな前口上が始まったのです。思わず、これって、ニュース・ステーションで、久米宏横山やすしと組んだ、あの緊張感があるなと、ぼくは視界の端に中原さんを捉まえながら、蓮実先生の長口上を聴いていました。蓮実さんて、久米宏も驚くであろう臨機応変の喋り上手で、中原さんはもっぱら、大声で笑って蓮実さんの独演を煽るような形なので、そんな格闘技の緊張感は急速に縮んで、司会も進行も全部、蓮実さんまかせで、質問を入れて三時間、楽しく笑わせてもらいました。

ぼくもメールで書いたのですが、蓮実重彦×中原昌也の格闘技バトルを期待と、要望しましたが、蓮実さんもそのことに触れ、映画談義プロレスをやるつもりだったらしい。それで、前振りとして、確かパリのラジオ局ですか、日本では知られていないジャクダンスキー(レジュメがないので、うろ覚え)という映画作家か、評論家がゴダールと長時間映画談義のバトル『眼の中の死』というテーマで先月の25日に放送(パリラジオ局)されたらしい。ゴダールは自分に擦り寄ってくる人間を嫌うらしい。このジャックダンスキーはモロにゴダールを悪し様に批判するのだけれど、そういう人間だからこそ、、この対談が実現したらしいが、お互いに平行線で、二人の長い独白(二時間位)の放送になったらしい。

「中原さんとそんな風にやりましょうか」とまず、ジャブを飛ばす。昨夜、戦略を練って、色々、貴方の本を捲ったら、ぼくとそんなに違わない、共感できるところが多いと、蓮実さんは偉く中原さんを持ち上げる。親子ほどの年齢差があるのだから、やがて、バトルどころか、和やかな雰囲気になってしまったのです。蓮実さん、ニュースキャスターもやれるのではないかと、思いました。蓮実さんの言を信用すれば、アクターとしてネット登録されているとのこと。そこで、質問事項で、ぼくは『珈琲時光』で、蓮実さんがクレジットされているのに、映画の中で、見つけることが出来なかったので、そのことをQしたら、出演したのに、カットされたのですって、中原さんがDVDのメーキングにはあるのですか、編集の段階でカットされたのですがと問えば、いや、ラッシュを観ただけ、蓮実さんが監督なら、どうしましたかと、意地悪く、訊いたら、僕でもカットするなと、ぬけぬけと答えていました。侯監督は電車を描きたかったんだ、でも、一青窈の電車の中での熟睡シーンは凄いと評価。クレジットで大きく蓮実重彦の名を見て、映画の中で見落としたと、気になったひとは多いのではないでしょうか、安心してください。蓮実さんの場面はカットされたのです。

長くなりますので、続きは、別の日に忘れない限りカキコしますが、『犬猫』という映画を最大限ほめていました。後半は殆どこの映画の素晴しさを蓮実さんはアナウンスしていました。
=『犬猫』OFFCIAL・WEB=
ふたりとも、観ていないし、観るつもりもないという映画は、何とマイケルムーアの『華氏911』です。立ち位置、世代も、何もかも違うように見える二人の共通点がマイケル・ムーアを認めないというよりは、完全に無視です。まるでコイズミさんと同じですね(笑)。
GO CINEMANIA REEL 4 スクリーミング ア ゴーゴー宇宙犬コテカナースウィッチ小麦ちゃんマジカルて うたヒット!2TEENAGE PET SOUNDS

武田徹/山形浩生(5/13記)

 大澤真幸さんの『文明の内なる衝突』を読んで、盛んに分かりにくいと、大合唱しているが、ぼくも分かりにくさを認めるが、分かりにくいからこそ、疑問が生まれる。
 武田徹の新刊『調べる、伝える、魅せる!』によると、ジャーナリスト養成コースの授業で、蓮実重彦『表層批評宣言』をテキストに使っている。

蓮実が思考のプロセスに注意を向かわせようとするのは安易にわかったと得心されるのを避けることでもある。つまり、わかりにくさから疑いを引き出そうとしている。そこに翻ってわかりやすさを考えるヒントも隠されているようにも思う。わかりにくい文章は疑いを引き出す。逆にわかりやすい文章は疑いを引き出さない。つまりいい意味でも悪い意味でも「わかりやすさとは疑いにくさである」

この蓮実の表現スタイルについて、山形浩生は『新教養主義宣言』でこう語っている。それを孫引用。⇒“bk1拙レビュー”

蓮実重彦の文は昔から長くて、いつもなにか核心を避けつつ、そのまわりを探りを入れながら遠巻きにするような文章なの。かれの文を読んでいるといつも、この人はストレートにものを言っていないな、別の魂胆でもって布石を打ってそうだな、なんか含みというか裏があるんじゃないか、そんな気がする。(中略)なぜそういう文かといえば、かれは手っ取り早い結論にとびつきたがる傾向ってのが諸悪の根源の一つだと思ってるから。結論よりその思考の過程の方がずっと大事なんだ、というのがかれの持論で、長い、長い、真綿がいつまでもとぐろを巻くような文章にすることで、人の注意はいやでも文の結論よりは文そのものーつまりは思考のプロセスーに向けられる、というわけ。


武田さんは蓮実さんの試みが成功しているかどうかは別として、「わかりやすさ」が文章表現において唯一の正義でないと指摘していることに留意すべきで、蓮実はわざとわかりにくく書き、疑う心、こんな文章を綴った思考プロセスに対する関心を持続的に引き出そうとしていると、記す。ー又、山形節を孫引用。

蓮実重彦の文は、とてもつらい立場におかれていて、かれが言おうとしていることを普通のことばで言おうとすると、どうしても「人間、結果はどうあれ努力が大事です」とか「やはり結果を出さないとだめです」とか「出会いを大切にしましょう」とか、そういう鼻くそみたいなお説教になってしまう。それはウソでなくて、一面の真実を持っているんだけど、どっかできいたお説教だと思われた瞬間に、そのことばはもう頭の芯には届かずにバイパスされてしまう。(略)/だから蓮実は、「例の」お説教だと思われないように、様子をうかがうような文章をつむいでいくんだ。そして予想外の方向からせめて、なんとかみんなの頭の芯にたどりつこうとする。−(『新教養主義宣言』晶文社

エマニュエル・レヴィナスを師と仰ぐ内田樹は、いまだにレヴィナスのことはわからないと、おっしゃるし、ぼく自身、一番、分からないのはぼくである。 別段、AがAであることが不快であるとの埴谷雄高の「自同律の不快」を持ち出さなくても、「ぼくがぼくでないことが快楽」である。どうやら、世の中には?わからないことに苛立つ人?わかることに苛立つ人がいて、多数派は?で少数派は?なんでしょう。おしょうさん風に言えば、認識論的なものの見方、存在論的なものの見方、でぼくは少数派の存在論的なものの見方をしているのでしょう。「恥」の考察は極めて存在論的な見方を要請する。だから、わからないのは、当然である。「わからないけど、惹かれる」ものしか、ぼくは興味がない。

 ところで、武田徹の新刊『調べる〜』で文章表現術で、大きく二つに分類している。
 ?:表現主義的「味わいある名文」(三島由紀夫
 ?:伝達主義的「わかりやすい名文」(本多勝一
 多分、ぼくは「味わいある名文」に傾斜している。
 勿論、実際は、?と?との、混合で、表現すべきであろうが、世の中、極端に?的表現する人、?的表現する人がいますね。