武田徹/山形浩生(5/13記)

 大澤真幸さんの『文明の内なる衝突』を読んで、盛んに分かりにくいと、大合唱しているが、ぼくも分かりにくさを認めるが、分かりにくいからこそ、疑問が生まれる。
 武田徹の新刊『調べる、伝える、魅せる!』によると、ジャーナリスト養成コースの授業で、蓮実重彦『表層批評宣言』をテキストに使っている。

蓮実が思考のプロセスに注意を向かわせようとするのは安易にわかったと得心されるのを避けることでもある。つまり、わかりにくさから疑いを引き出そうとしている。そこに翻ってわかりやすさを考えるヒントも隠されているようにも思う。わかりにくい文章は疑いを引き出す。逆にわかりやすい文章は疑いを引き出さない。つまりいい意味でも悪い意味でも「わかりやすさとは疑いにくさである」

この蓮実の表現スタイルについて、山形浩生は『新教養主義宣言』でこう語っている。それを孫引用。⇒“bk1拙レビュー”

蓮実重彦の文は昔から長くて、いつもなにか核心を避けつつ、そのまわりを探りを入れながら遠巻きにするような文章なの。かれの文を読んでいるといつも、この人はストレートにものを言っていないな、別の魂胆でもって布石を打ってそうだな、なんか含みというか裏があるんじゃないか、そんな気がする。(中略)なぜそういう文かといえば、かれは手っ取り早い結論にとびつきたがる傾向ってのが諸悪の根源の一つだと思ってるから。結論よりその思考の過程の方がずっと大事なんだ、というのがかれの持論で、長い、長い、真綿がいつまでもとぐろを巻くような文章にすることで、人の注意はいやでも文の結論よりは文そのものーつまりは思考のプロセスーに向けられる、というわけ。


武田さんは蓮実さんの試みが成功しているかどうかは別として、「わかりやすさ」が文章表現において唯一の正義でないと指摘していることに留意すべきで、蓮実はわざとわかりにくく書き、疑う心、こんな文章を綴った思考プロセスに対する関心を持続的に引き出そうとしていると、記す。ー又、山形節を孫引用。

蓮実重彦の文は、とてもつらい立場におかれていて、かれが言おうとしていることを普通のことばで言おうとすると、どうしても「人間、結果はどうあれ努力が大事です」とか「やはり結果を出さないとだめです」とか「出会いを大切にしましょう」とか、そういう鼻くそみたいなお説教になってしまう。それはウソでなくて、一面の真実を持っているんだけど、どっかできいたお説教だと思われた瞬間に、そのことばはもう頭の芯には届かずにバイパスされてしまう。(略)/だから蓮実は、「例の」お説教だと思われないように、様子をうかがうような文章をつむいでいくんだ。そして予想外の方向からせめて、なんとかみんなの頭の芯にたどりつこうとする。−(『新教養主義宣言』晶文社

エマニュエル・レヴィナスを師と仰ぐ内田樹は、いまだにレヴィナスのことはわからないと、おっしゃるし、ぼく自身、一番、分からないのはぼくである。 別段、AがAであることが不快であるとの埴谷雄高の「自同律の不快」を持ち出さなくても、「ぼくがぼくでないことが快楽」である。どうやら、世の中には?わからないことに苛立つ人?わかることに苛立つ人がいて、多数派は?で少数派は?なんでしょう。おしょうさん風に言えば、認識論的なものの見方、存在論的なものの見方、でぼくは少数派の存在論的なものの見方をしているのでしょう。「恥」の考察は極めて存在論的な見方を要請する。だから、わからないのは、当然である。「わからないけど、惹かれる」ものしか、ぼくは興味がない。

 ところで、武田徹の新刊『調べる〜』で文章表現術で、大きく二つに分類している。
 ?:表現主義的「味わいある名文」(三島由紀夫
 ?:伝達主義的「わかりやすい名文」(本多勝一
 多分、ぼくは「味わいある名文」に傾斜している。
 勿論、実際は、?と?との、混合で、表現すべきであろうが、世の中、極端に?的表現する人、?的表現する人がいますね。