国破れて山河あり

『風の旅人』編集だより
『風の旅人』編集だより :既得権VS新システム】とズバリと明快に切り結ぶブロガーの編集長佐伯剛さんのコラムはとても爽快です。晩年の日野啓三に接して師として敬愛した佇まいがこの一文にも感じられる。僕と、佐伯さんとの最初のネットでの交歓は「日野啓三」を通してなのです。♪2005-02-11 - 葉っぱのBlog「終わりある日常」日野啓三とは - はてなキーワード

橋本治

近代は孤独を発見したんだけれど、いや、「孤独を発見」したから近代の扉を開いて「神に退場」を願って「人間が登場」したんだが、折角の「個の自覚」が「自立」までの徹底さと辛抱がなく、資本の論理も徹底すれば「国家の死滅」へとなるはずだし、それが後期近代から現代への流れのはずなのに、そんな「自立への道」はしんどいものと、左も右も好い加減に俗情と結託して、「ああ、やっぱり世の中は、相変わらず“美しいが分からない人”の方が支配的なんだ」、橋本治は嘆くが、でも、と結語する。

個人的には、「世界は美しさで満ち満ちているから、好き好んで死ぬ必要はない」と思う私は、それを広げて、「世界は美しさに満ち満ちているから、“美しいが分からない社会”が壊れたって、別に嘆く必要もない」と思います。それが、「美しい」を実感しうる人というものの、根源的な力なのだろうとしか、私には思えないのです。

森岡正博の『感じない男』はマッチョなものに対する憧憬の挫折が見え隠れするが、僕自身、そんな、マッチョな男になりたいとは一度も思ったことはなかった。恐らく橋本治もそうでなかったかと思う。そうでなかったら、デビュー作『桃尻娘』が書けるはずはない。そんなマッチョ男の反転として『感じない男』があるのですが、僕が不思議に思ったのは『人はなぜ「美しい」がわかるのか』で、橋本治が“美しいが分からない人”を書いたって仕方がない、「なぜ美しいがわかるのか」に拘って悩みながら書き続けたように、なぜ森岡正博は「感じる」ことに正面から対峙しなかったのかということです。ひょっとして、「驚き」を実感したことがない人なのか?「感じない」をいくら言及したって、世界を分析はするが、「世界の秘密」を知ることにはならないと思う。そんな徒労の営為より、「世界の美しさ」に「感じる」身体を持ちたいものです。まあ、森岡さんの本は女性の読者をターゲットにした男の性の秘密を語るものだったらしいが、僕自身は挿入から性愛を語るなんて、物凄く違和感があってどうでもいいことだと思ったのです。戦略として≪少女たちを襲う性の氾濫に対する危機感≫を何とかしたいという想いなら、むしろタイトルを『感じる男』にすれば、勘違い野郎が読んでしまう局面があったのではないかと思ったりもしました。

「孤独」というルートを拓きながら、近代は、その行先を相変わらずの制度社会=前近代に設定したままだったのです。だから、「孤独」という近代の関門をくぐり抜けて、人は適当なところで、相変わらず前近代へ舞い戻ります。「青春の蹉跌」とはこのことでしょう。青春につまずいて「現実」に戻ると、そこは昔以来の「前近代オヤジ社会」なのです。「個」はありませんが、その代りに、生活の保障をしてくれるシステムはあります。前近代の制度社会は、さまざまに「近代的」な色彩をまとって、近代においても健在のままなのです。/行先をなくした「孤独」は、いつの間にかその性格を変えます。「身分」という形でそのシステムを固定した前近代は階層社会で、であればこそそこに「転落」はあって、階層社会を排したはずの近代に「転落」はないはずなのに、「成長」を廃れさせた近代は、「孤独=転落」と位置付けるようになってしますのです。「転落」だから、「孤独」から脱することが容易に出来ない。「孤独」を「人の集団からの転落」と位置付けて、近代の装いをまとった前近代の社会は、これを容認します。容認されて、「孤独」は「許された時間の牢獄」と変わるのです。「孤独に転落したくなかったら、この制度に従順であれ」とする点で、二十世紀後半の日本社会は、まさしく「近代の装いをまとった前近代の制度社会」となったのです。(中略)/「自立」は、「近代の装いをまとった前近代的制度社会」を目指しません。目指すものは、「近代の非制度社会」とか、「脱制度社会」という、まだ存在しないものです。「存在しないから分からない」と言って、その方向を捨てることは出来ません。(256,7頁)

資本制OSでも「脱制度社会」は可能であろう。むしろその足を引っ張るのは「近代国家」であろう。僕たちはもうそろそろ、「国家」のメリット、デメリットについて検証すべきでしょう。
参照:http://www.journalistcourse.net/blog/archives/2005/03/post_20.html
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