降り積もれば…

“Tohruさん”は某大学の社会学の先生なんですが、ブログ“降り積もれば”はとても楽しいコラムを書いてくださっている。3/19の『領土ナショナリズム』と言った時事問題にも言及していますが、竹島(独島)問題での落としどころとして「International Margin」としての考え方は国際法上、どこまで実効性があるのか、不勉強なのでコメントできませんが、一部引用します。

領土問題は過去に遡及してはけっして解決しない。解決は未来にしかない。この未来とは、これまでなかったものを作り出すということである。そして、これまでなかったものとは、国家と国家の間の挿入されるどちらの国家でもない領域(マージン)のことである。ただしそれは、北と南の間にあるような非武装地帯(軍事境界線)のことではない。どちかの国でもなく、どちらの国でもあるような、だからどちらの国の企業活動も、どちらの国の教育制度も、どちらの国の徴税制度も併用・流用・相互依存・相互解消するような、そういう意味での「マージン」。一国二体制ではなく、二国一体制のような相互交流の場としての「マージン」である。そもそも国際法は、過去を志向するものではない。それは、未来を作り出す学問であるはずだ。その学問がどうして「International Margin」に関心をいだかないのか、不思議である。ーブログ“降り積もれば”よりー

実際にこの「International Margin」は、経済特区でもなし、政治特区でもなし、二国間で協定を結んで成り立つ二国間政治特区のようなものであろうか、凄く興味のある提案ですね。もっと詳しく先生に訊きたいものです。領土ナショナリズム止揚できる実際的な叡智かもしれない。二国間の経済特区なら、すぐにも実現出来そうな気もするが、どうなんでしょうか?東アジア経済特区となると、色々な問題が噴出する。かっての悪夢を連想する。数国一体制となると、覇権国家が影で糸を引くということになるのでしょうね。EUのような体制に移行することが、東アジアで可能かどうか、ドルの信用はどんどん下降しているから、地域通貨が「International Margin」で決済されるシステムが出来れば、未来に向かって新しい潮流を生み出すきっかけになるかもしれない。もし、竹島(独島)を両国民にメリットのあるシステムを構築できる場として未来に向かった方向性を持てば、その果実は他の紛争地帯でも応用が出来るかもしれない。とにかく、過去に遡及する領土問題は紛争しかない。それを回避するシステムの構築を冷静に未来に向かって解消するにはどうすべきか?を考えるべきでしょうね。何か、説教節になりましたが、ご勘弁を…。Tohruさんにビビッドに影響されました。

中井久夫

中井久夫『清陰星雨』(みすず書房)は好きな本です。本書の「文化変容の波頭ー米国で続発する大量殺人の背景ー」で、犯罪を犯すかどうかを決めるのは「踏み越え」(transgression)が一番大きな因子で、南北戦争から第二次世界大戦までは、米国の一般兵士の「発砲率」は10〜15パーセントであった。殆どの兵士達は、敵を射つ場面になると、「インスタントの良心的兵役忌避者」になってしまう。(恐らく他者が見えていた)
第二次世界大戦で日本軍の玉砕突撃に直面しても、射つのをためらう率は変わらなかったらしい。これらは「人間性」に希望を持たせる事実であると、著者は言う。しかし、1946年に「発砲率」の改善命令が出た。それによって、(1)若い兵士を選び、(2)頭を固定して残酷な戦闘場面のビデオを何時間も見せる(洪水法)、(3)同心円の標的をやめ、キャベツをくりぬいた中にもトマトジュースを入れて頭とした人形を木立の間をちらちらさせ、これを射たせる。チーム同士で競争をさせ、賞罰を与える(条件づけ)、(4)敵兵は人間でないという教育をする(洗脳)。これで、発砲率は朝鮮戦争で55パーセント、ベトナム戦争で、実に95パーセントに向上した。 (キューブリックの映画『フルメタルジャケット』は真実をついているのだと、背筋が寒くなりました。)
◆米国はその代償を支払う。このように条件づけられてしまった人間は平時に適応できない。殺人の急激な上昇である。とにかく兵士の殺人への「乗り換え」に対する抵抗を粉砕するためには様々な手数を要する。それは、戦争に行きつく回路を巧妙にプログラムしてゆく仕掛けであろう。戦争を隠蔽しながら、平和と正義のために戦うという刷り込みで「躊躇しない戦闘兵士」を作り上げる。日常の場で、そんな文化変容が徐々に進行して行っているとしたら、こんな怖いことはない。(文化ナショナリズムは凶器の駆動力足り得る)
◆平和を声高に語ることが否定形で戦争を無意識に欲望してしまう危険性をぼくたちは注意深く見据えなければならない。戦争/平和を、行ったり来たりする回路を切断して、全然違った回路なり、OSなりをインストールすることをぼくは模索したい。そんなことを考えるのも、ぼくの欲望が限りなく去勢に近いものだからであろうか?虚勢の日々を送っています。 (去勢であっても感じることは出来るのです)―旧ブログより転載2004/04/19―

新刊・近刊情報◆『アホウドリの糞で出来た国』◆茂木健一郎著『脳と創造性』◆スラヴォィ・ジジェク著『ジジェク自身によるジジェク』◆長谷川宏訳ヘーゲル『自然哲学』

茂木健一郎 クオリア日記: 『脳と創造性』発売
内田樹×橋本治の対談集『仏滅の日にアンチョビを』がちくまプリマー新書?として今夏出版されるらしい。笑える、楽しめる、そして考えさしてくれるお二人さんなので、どんな本になるのか、わくわくもの。でも、橋本治を評論したものを読んだ記憶は確かにないですね。斎藤環さんあたりが、症候としての文芸評論で取り上げてもいいかなと思うが、橋本さんって、つかみどころのない人なのでしょうか?
Archives - 内田樹の研究室♪「季刊・本とコンピュータ (第2期15(2005春号))」⇒『本コ』第二期第15号「出版再考」が発売されました : ウラゲツ☆ブログ

オウムサリン

1995年3月20日、あれから十周年です。何がどのように検証されたのか、意欲的に継続して報道し続けているのは森達也さんぐらいか、『武田徹オンライン日記3/19』には自省を込めてサリンについてカキコしています。参照:うたかたの日々
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