中井久夫

中井久夫『清陰星雨』(みすず書房)は好きな本です。本書の「文化変容の波頭ー米国で続発する大量殺人の背景ー」で、犯罪を犯すかどうかを決めるのは「踏み越え」(transgression)が一番大きな因子で、南北戦争から第二次世界大戦までは、米国の一般兵士の「発砲率」は10〜15パーセントであった。殆どの兵士達は、敵を射つ場面になると、「インスタントの良心的兵役忌避者」になってしまう。(恐らく他者が見えていた)
第二次世界大戦で日本軍の玉砕突撃に直面しても、射つのをためらう率は変わらなかったらしい。これらは「人間性」に希望を持たせる事実であると、著者は言う。しかし、1946年に「発砲率」の改善命令が出た。それによって、(1)若い兵士を選び、(2)頭を固定して残酷な戦闘場面のビデオを何時間も見せる(洪水法)、(3)同心円の標的をやめ、キャベツをくりぬいた中にもトマトジュースを入れて頭とした人形を木立の間をちらちらさせ、これを射たせる。チーム同士で競争をさせ、賞罰を与える(条件づけ)、(4)敵兵は人間でないという教育をする(洗脳)。これで、発砲率は朝鮮戦争で55パーセント、ベトナム戦争で、実に95パーセントに向上した。 (キューブリックの映画『フルメタルジャケット』は真実をついているのだと、背筋が寒くなりました。)
◆米国はその代償を支払う。このように条件づけられてしまった人間は平時に適応できない。殺人の急激な上昇である。とにかく兵士の殺人への「乗り換え」に対する抵抗を粉砕するためには様々な手数を要する。それは、戦争に行きつく回路を巧妙にプログラムしてゆく仕掛けであろう。戦争を隠蔽しながら、平和と正義のために戦うという刷り込みで「躊躇しない戦闘兵士」を作り上げる。日常の場で、そんな文化変容が徐々に進行して行っているとしたら、こんな怖いことはない。(文化ナショナリズムは凶器の駆動力足り得る)
◆平和を声高に語ることが否定形で戦争を無意識に欲望してしまう危険性をぼくたちは注意深く見据えなければならない。戦争/平和を、行ったり来たりする回路を切断して、全然違った回路なり、OSなりをインストールすることをぼくは模索したい。そんなことを考えるのも、ぼくの欲望が限りなく去勢に近いものだからであろうか?虚勢の日々を送っています。 (去勢であっても感じることは出来るのです)―旧ブログより転載2004/04/19―