茂木健一郎

脳の中の小さな神々
◆『脳の中の小さな神々』(柏書房)は聞き手が歌田明弘さんで、茂木健一郎の語りですが、自由奔放に快刀乱麻の脳内講義をしてくれる。カバー作品は林茂樹で「Heart break night 2003 陶」、粋なカバーでしょう。読書途中なのですが、早々と、その面白さをちょいと、紹介したくなりました。

茂木 [……]/科学主義というのは、「いまここで議論していることはこのコンテキスト(文脈)のなかで閉じている」という態度をあくまで貫くことなんですね。フランスのポストモダニズム現象学の流れを受けていると思うんですけど、ずっとわけがわからないと思っていた。だけど、あるときふとわかった。何かをあるものと決めたら、そのコンテキストからはずれないのが科学主義。たとえばいま皺くちゃのおばあさんが目の前にいたとしますね。科学者の立場は、たとえて言うと、「皺くちゃのおばあさんというのは魅力のがないものだ」ということを前提にしたうえで、「でもおばあさんにも親切にしなくちゃいけない」というものなんですね。ポストモダニズムの発想はそうではない。目の前にいる皺くちゃのおばあさんと自分が熱烈な恋愛に落ちるかもしれなくて、そのとき皺くちゃのおばあさんは、その辺りにいる若い娘よりも限りなく魅力的な存在になりうる。そうしたことを許容したうえで議論するのがポストモダニズムで、考え方の大きな差がある。/進化心理学なんか典型ですけど、ふつうの科学主義の立場では、若い女のほうが価値があるんです。なぜかというと、生殖可能な年齢が長いから。

 茂木 ええ、まったく(笑)。男が若い女に親切にすると進化することになる。そしてまた、「おばあさんにも親切にしておくと子育てに協力してくれるかもしれないから、長い目で見れば自分の子孫が残る可能性が高くなる」というようなタイプの説明をするのが科学なんですよ。科学主義というのは概念セットを定義したうえで、概念を組み合わせて説明する。ポストモダニズムはそうじゃなくて、概念の成り立ち自体を根底から問うというか、違う概念の組み合わせもあるでしょうと言う。科学者にそれが理解できないのはあたりまえなんです。だってそういう訓練は受けていないんだから。機能主義の人としゃべっていて、彼らにいちばん欠落しているように感じるのはそこなんですよ。/余談ですけど、大学の理工系の研究室に行くと、ぼくたちの世代まで典型的な光景だったのは、「少年マガジン」とかおいてあって、グラビアの水着の女の子の写真が貼ってある。そこには「ひょっとしたらおばあさんのほうが魅力的かもしれない」って変なことを考える人はいないんですよ。その単純明快な世界観!(笑)そうやって割り切ったから科学文明って発達してきたんですけど、意識というものを問題にしたときに必要とされる能力は、またちょっと別のような気がするんですね。そこはなかなかモードチェンジができないところなのかな。

 茂木 人間の思考モードって複数あって、一方ではすごく論理的、科学主義的にがちがちにやっていくというモードがあって、それで解ける問題もある。一方ではそういうものに疑いをもって、柔軟に何かをやっていくというモードがありますよね。でもどちらでも意識は解けそうにもないんですよ。わかります?その絶望的な感じというのは。どうもぜんぜん違った第三の思考のやり方をしないと解けそうもない。私はかなり絶望的な状況だと思っていますけどね。