吉田修一/物語過剰でないパークライフが一番、好き

◆彼を知ったのは映画と本の好きな若者のメールからでした。芥川賞授賞作品『パーク・ライフ』を読んでの熱烈応援メッセージでした。「やっと、ぼくらの世代から誇るべき表現者が現れた」っと言った内容でした。「21世紀の夏目漱石です」と彼は言葉を継ぐ。ぼくは未読だったので、彼を信じて読んだのですが、間違いなくシンクロしました。ただ、他の作品、それ以降の作品、今度の新刊『長崎乱楽坂』を読むと、「パーク・ライフ」のあの禁欲的な物語性の回避は、他の作品では解除されて、むしろ巧みな人物造形、物語性が前景化されているような気がする。
◆そう言えば、去年、京都で保坂和志の講演会で「パーク・ライフ」の吉田さんとの共通点を指摘した読者がいて、保坂さんは本屋で立ち読みしたことがありますがと、前置きして、別段、否定はしてはいなかった。ただ、他の作品を読んでみると、その物語の横溢性で、質問者も保坂和志自身も「全然、違いますね」と前言を撤回すると思う。吉田修一の登場人物達はは3Kのようなところで働く現場(倉庫、建設現場、ガソリンスタンド、など)の匂いを発散させる描写に優れたものを感じさせてくれるが、かような肉体のエロスは保坂和志の回路では、否定型で接続されているかも知れないが、表に顕れない。吉田修一には様々な性が登場する。ただ、吉田修一はまだまだ、形が決まっていないのでしょう。文体も大いに変る可能性もある。今回の新刊は、保坂和志どころか、中上健次を思い出しました。
◆次作はどんな趣向になるのかも知れないが、若手の作家でコンスタントに追跡して読んでいるのは吉田修一が第一です。好きな作家に間違いありません。ただ、ぼくの個人的な好みは『パーク・ライフ』路線なのです。#『熱帯魚』
◆久し振りに吉田修一を読みました。表題は『長崎乱楽坂』の長編小説ですが、六つの連作がそれぞれに小品として完結したものとして味合うことが出来ます。2002年から3年にかけて一年間、新潮に連載されたものを単行本化するにあたり、大胆な加筆をしている。最初の『正吾と蟹』は、新潮で読んでいました。正吾は刺青もので、本書の主人公駿の叔父哲也の同級生で、その哲也は離れで首を吊って死んでしまった。その離れのある三村一家はヤクザを生業とする大家族で、駿と弟の悠太は造船所事故で寡婦となった母千鶴と一緒に叔父三村文治一家で暮らしようになったのである。卑猥な言葉も飛び交い、酒で刺青の浮き出た半裸の男達が同じ屋根の下で暮らし喧騒の日々を送るが、駿は叔父達のヤクザな兄貴達と違って部屋にアラン・ドロンクラウディア・カルディナーレ、ジョージ・チャキリス、モニカ・ヴィッティなどの映画俳優のポスターを貼って絵を描いていた自殺した哲也の離れで時々、ひとり遊びするが、ある日、どこからともなく、声がして、駿の離れに幽霊が出る。この離れに巣食う気配が長編小説全体に主調音となって、色濃くこの一家に反映する。数々の物語のエピソードを生み出す。故哲也が模写したゴヤの「巨人」を飾った離れは、神戸のヤクザ井口の隠れ家になったりもする。巨人はそこから立ち去ろうとするのか、逆に人間たちを今にも踏みつけはじめようとするのか、そのような予感を、気配を、描写することに吉田修一の筆は冴える。芥川賞授賞作品『パーク・ライフ』で例えば選考委員の石原慎太郎が何にも起こらない小説と不満を述べたが、ぼくとしては「暴力の予感」、「恋の予感」であれ、「事の予感」の横溢した小説とも読めるとのbk1レビューを書いたが、今ではそのことが間違いなかったと思う。その「事としての暴力性」が露わになったとも言える。これなら、慎太郎も理解出来るであろう。逆に言えば、ぼくはそのことが不満である。やはり、彼の小説で一番、好きなのは『パーク・ライフ』です。
◆何か、中上健次なかにし礼早坂暁久世光彦宮崎学のやくざ一家を描いた自伝に似たようなシーンがあったなあと、色々と思いだしてしまった。『パーク・ライフ』と違って凄く映画化し易いし、読んでいる途中から映画的な読みをして楽しんでしまった。彼は 『東京湾景』にしろ、巧みなストリーテイラー振りを発揮しているが、その器用さが、例えば片山恭一の『セカチュー』を凌駕する愛の物語を書いてしまう危惧もある。ただ、それに歯止めをかけるのは本書でも、露わになっている彼の暴力性でしょう。ミリオンセラーになるには暴力はタブーなのです。決め台詞を引用しよう。母千鶴は駿、悠太兄弟を長崎に置いて、正吾を慕って神戸行く。

「……なあ、駿」/振り向いた正吾が、険しい顔で駿を見る。/「……もし、俺のことが憎うなったら、いつでも俺を殺しに来い。いつでも相手になってやる。いつでも本気で闘こうてやる」

父と子の物語であり、近親相姦の色合いの強い『長崎乱楽坂』である。『bk1』