佐野眞一からフリーランスのライター達

フリーランスのライター達にとって、佐野眞一は勝ち組のトップランナーに見えるであろう。でも、宮本常一を書いた『旅する巨人』で大宅壮一ノンフィクション賞を貰ったのが、50歳の時で、『東電』、『カリスマ』でやっと、そこそこ、食えるようになったと言う。=『文筆生活の現場』(中公新書ラクレ)=
『だれが「本」を殺すのか』も業界ネタなのに一般の読書人の話題を呼び、ぼくも日本橋丸善で行った講演会に参加しましたが、話し振りは、ゆったりとした温厚な感じで、とても、ぼくより年下に見えなかった。通称『本コロ』は出版流通を多少なりとも知っている人には物足りなかったであろうが、NHKの課外授業の講師ぶりも拝見したが、彼は啓蒙家、教育家として適性なものがあるのであろう。現在週間新潮に連載中の『満州の夜と霧』は興味深い仮説に基づいている。それは日本の高度成長は失われた人造国家満州を日本国内に取り戻すゲームだったというわけである。単行本になったら、是非とも読みたいものです。その後、「本当の沖縄物語」を書く予定と、彼の近未来の予定は資料と共に埋まっている。松本清張はノンフィクションの分野においても巨大な山脈を構築したが、五十歳を超えてからエンジンがかかったのです。彼の好奇心、野心は尽きるどころか、過去の仕事と繋がって、十年後、二十年後と大きくなってゆく予感と楽しみがあります。これから、お手並み拝見です。まだまだ、お若いのです。『本コロ書評』『だから、僕は、書く。』
◆『文筆生活の現場―ライフワークとしてのノンフィクション』は十二人のフリーランスのライタ−達が己を取材対象にワン・マン・アーミーの全く違った切り口、語り口で、色々と書いている。申告前の年収が311万2263円で必要経費を引いたら月10万円しか生活費として妻に渡す事が出来ない、とボヤく、『説得−エホバの証人と輸血拒否事件』で講談社ノンフイクション賞を授賞した大泉実成は、「臨界事故被害者の会」の活動を始め、どうやらライフワーク?として井上揚水を追っかけているらしい。
◆妻と同行で“チェチェン紛争”にかかわり、チェチェンで取材した『カフカスの小さな国 チェチェン独立運動始末』を書いた林克明や、現地で生活しながら『ルーマニア・マンホール生活者たちの記録』(現代書館)を書いた早坂隆、朝日新聞を早期退職して準備万端、書くこと、現場が大好きな烏賀陽弘道は国際関係学が専門ながら、デビュー作は『Jポップの心象風景(仮)』(文春新書)になるらしい。彼の生活もつつましいものである。新聞記者時代でも、「いつ会社を辞めてもいいように、可能な限り荷を背負わず、身辺を身軽にしておくこと」で、「毎月の固定収入を前提にした生活設計をしないこと」、それによって、彼は「子どもをつくらない・専業主婦と結婚しない」、「家を買わない」、「車を持たない」ことを実行したのです。彼はこれ一作書いたら本望だという太く短く燃え尽きてというジャーナリズム魂というより、「細く長く書き続けるにはどうすればいいか」を真剣に模索している、これからの烏賀陽さんなのです。
藤井誠二は「自己責任論」で槍玉にあがった今井君のように高校生活動家として、反原発運動、差別問題、子供の人権問題と、活動をしながら、高校二年のときに『世界』に投稿したのが、彼のデビューらしい。『少年に奪われた人生−犯罪者被害者遺族の闘い』で、ジャーナリストとしての「入れ替え可能性」につきまとわれないですむ自信と立ち位置を何とか確保したみたいであるが、でも、逆に「入れ替え可能性」を思わなくなったら、そのあとにくるものはノンフィクション・ライターとしての傲慢でしかないと、自問自答している。森健は竹森健太郎という筆名で『「タカラ」の山』、新刊で『社長をだせ!ってまたきたか!“あっちでもこっちでも”クレームとの死闘』など、彼は特定のジャンルでなくジャンルを超えたグレーゾンにフォーカスして仕事をしているみたいです。デビューは『人体改造の世紀』である。「WEB現代」でも、発信を続けている。
石井政之は本書の編者であとがきも書いている。彼はNPO法人ユニークフェイスの代表として「顔面」に拘り、柳美里の『石に泳ぐ魚』事件にコミットし、益々、顔面に拘り続ける。『顔面バカ一代』(おに講談社文庫)が発刊されます。肩書きに科学ジャーナリストというレッテルを貼られることにいくらかの違和感はあるみたいですが、『クローン人間』の粥川準二は現在、大学院博士課程で社会学を専攻している。科学技術を本格的に論じるためには、自然科学の知識だけでは不充分で、社会科学の知識も必要だと痛感したらしい。アカデミックな勉強は基礎体力をつけることになり、彼自身のジャーナリズムの広さ、深さをより高めるものに下支えすると思う。みんな自前で自己研鑽しているのです。その他、江川紹子斎藤貴男武田徹佐野真一は、みなさん、よくご存知だと思うので、紹介は割愛します。ただ、武田徹さんのメッセージを引用しておきます。

社会に向けて何か書いて訴えられる、そんなジャーナリズムの仕事は凄く贅沢なものだと思います。自分で書くべきことが見つかって、書ける立場に就けて……、そこまで行けたら、それで収入が得られなくてもいいんじゃないか。表現できる立場に立てた人間にはある種のノブレス・オブリージが発生するのだと思う。表現させてもらえる権利を得ているんだから、その分、義務を果たさないと。経済的見返りが少なかったり、時にはまったく収入にならなかったり、持ち出しですらあっても、それは耐えないといけない面があるのではないかとも考えているんですよ。

ジャーナリズムのマーケットはこの国だけでなく、東アジア、世界へと発信する気構えが欲しいものです。斎藤貴男が書いているように、もしかして新しい新聞社が誕生することがあれば(外資系との合併でも)、…、あるのだろうか?♪『bk1書評』