小津安二郎

ぼくの周辺は小津さんの好きな人が多いみたい。ブログを覗いても、小津を熱く語っている。1963年に亡くなったのですから、リアルタイムに青春のぼくは小津映画を観ていいはずなのだが、全く観ていない。ただ、テレビの名作映画放映で、何となく、『東京物語』、『晩春』、『秋刀魚の味』などを、ながら族でしか観ていないのです。意識的にビデオなり劇場で、コストなり、足を使ったのは、色恋から遠のいた五十歳を越えてからだと思う。しかし、最近の小津さんのファンは若い人が多い。そりゃぁ、蓮見重彦吉田喜重はぼくより年上ですが、作家の保坂和志脳科学者の茂木健一郎とか、彼らを信奉する若い人達が、彼らの言説を通して、小津映画を見始め、その独特な映画美学に憑依されていったというのが、通常の流れらしい。ところで、最近、ゴダールの『映画史??』(筑摩書房)を読んだのですが、何故、小津安二郎が取り上げられていないのであろうか?まあ、黒沢明溝口健二川島雄三にしろ、ゴダールは東アジア全体の映画にも、ちゃんと、コメントしていないみたいですが、そのあたりの問題は四方田犬彦ゴダール批評というかたちで、言及しているみたいですね。いつか、その本を読んでみます。こうして、邦画の昭和三十年代を俯瞰してみると、十代のぼくはリアルタイムに黄金の時代に生きていたはずなのに、無為に過ごし、今、思い返しても記憶に残る想い出がないことに薄ら寒さを覚えました。
 ところで、ちょいと、古いものですが、“メルの本棚”を訪問したら、メルさん、九条のシネ・ヌーヴォ“小津安二郎映画祭”の熱き想いを書いている。

気がつくと、もう7月も終ってしまう。で、とうとう待ちに待った小津安二郎特集が始まるのだ。明日は、『晩春』を見に行く予定。実は、その後に行われる蓮實重彦トークショーが目当てなのだけど。すごく楽しみ。早めに行って整理券を確保しなければ、と今から気合いが入る。台風が来ようが槍が降ろうが、明日は何が何でも見に行こう。寝坊しないように!

 『晩春』は観ているから九条まで遠出するのは億劫であるけれど、蓮実重彦トークショーは覗いてみたいものです。メルさんは槍が降ろうがとの強い想いなので、そのような想いの満ちた人々が集い、会場の雰囲気はヒートアップするはずなので、行ってみたいのは山々なれど、天候も思わしくなく、蓮実さんの毒気は文章で充分なので、まあ、よして、どうせ、メルさんはブログでレポをアップするはずなので、それを楽しみに、待てば海路の日和あり、にするかと、今日も淀川沿いに蟄居しています。 台風はどうなっている?
★メルさんが、さっそくレポをアップしてくれました。

 
『晩春』の上映終了後、引き続いて蓮實重彦トークショーが始まる。きょうはこれがメインの目的だったのだけど。やっぱり、聞いて良かった。めちゃくちゃ面白い内容だった。トークの冒頭、ゴダールを引用して映画は滅ぼされていく、なんて言う。だけど、小津映画は滅ぼさせないと。そして、蓮實映画論ではおなじみの。「われわれは映画を見ていないのだ」。と挑発する。人類は動く絵を嫌うのだ、と。映画を見ない人々は何をするかといえば、映画をすぐに物語に還元してしまう。小津といえば、「あの家族映画を撮り続けた人だ」と簡単に言ってしまう。だが、それは映画を見ていないということだ。たとえば『東京物語』。この映画で、珍しいのは義理の娘である原節子が父の笠智衆に向かって、非常に強い調子で否定をすることである。父が「あんたはいい人だ」と言ったとき、原節子ははっきりと「とんでもない!」と言う。父に向かって、娘がこれほど力強く反抗するのは小津の映画では珍しい。このシーンが重要な「運動」であることを蓮實氏は何度も強調していたのが印象的だった。『監督小津安二郎』を記した蓮實氏ですら、『東京物語』は未だ理解できないと言う。小津映画もまだ全貌を現わしていないのだ。さて、続いて蓮實氏は小津映画に見られる「バレエ的なもの」を指摘していた。一つは、女性の登場人物が男性が落としたものを拾う仕草であり、二つ目は、その拾ったものを男性にドサリと投げつける仕草だ。小津映画の男性、それはたいてい父であり夫であるが、彼らは帰宅すると着ていたものを、それは見事に脱ぎ散らかしていくという。こんなことは、いくらかつての日本の家庭であってもありえないと。不自然なことだ。だが、彼らは平然と着ていたものを脱ぎ、床に投げ散らしていく。そして、その落ちた服を女性達は、これもまた見事に拾っていくのだ。映画を見ない「バカ」は、こうしたシーンを見ると、日本の家庭は女性が虐げられているなんて言い出すが、それは違う。明らかに、このシーンは演出なんだと。それは見れば分かることなんだ、という。さらに「バレエ的なもの」として、座っていた人が立ち上がるというシーンを指摘し、この仕草こと小津映画の本質であることを述べていた。映画用語では、カッティングインアクションというものが、立ち上がる仕草のショットに時に使われている。簡単に言うと、座った状態から立ち上がった瞬間に、一八〇度カメラの位置が変わるのだ。お尻側を写していたカメラは、人物が立ち上がる瞬間に人物の正面に移る、というわけだ。小津映画には、こうした規則があるという。たとえば、三宅邦子という女優がいる。彼女は、実に軽々と大きなお尻を持ち上げて立ち上がると。この「運動」を小津は撮りたかったのではないか、とも思えると述べていて面白かった。とまあ、こんな感じの内容のことを約一時間ほど話した。私などは、すごい勉強になった。私も『東京物語』の原節子が父を否定をするシーンは好きだ。また、今度『東京物語』を見てみたくなる。小津の映画もすごいのだけど、蓮實重彦の映画分析はすごいな、と感心する。実に見事だ。話し方もめちゃくちゃうまいし。やっぱり憧れてしまう。私もいつか言ってみたい、

 参照:# 茂木健一郎著『日常が底光りする理由』(文学界2004年1月号)#『茂木健一郎(小津安二郎私論)』#保坂和志の『日常そのままが普遍へ-小津安二郎の鎌倉の山』##『小津安二郎の反映画』##『メルさんの東京物語』